浅野 森

OMFG, Inc./MIllennium People Agent代表

DJ NOBU、Haruka、IORIのマネージメントをしています。
2016年4月に独立しました。

2016年を振り返る

 といっても自分の場合、英国のEU離脱やドナルド・トランプの大統領選勝利の報せなどにあっけにとられ、口を開けたままついには年末を迎えてしまった感がある1年だった。これだけではあまりにも文字数が少ないので、少しだけ自分の周りに起こったことについて書かせてもらうと、昨年から今年への年越しは「FUTURE TERROR」@UNITで迎え、4月に独立して新会社を設立、不慣れな諸業務に戸惑いながらどうにかやり過ごしてきた1年間で、もう一息がんばれば正月にはのんびり餅が食えそうだと、つい最近になってようやく心の余裕が出てきたところだ。この1年、およそ恵まれているとは言い難い市況の中、当然のように困ったことやうんざりすることもたくさんあったが、なかにはいくつか心躍るニュースもあった。そのうちの1つが [RA Poll: Top Djs of 2016] にDJ NOBUが選ばれたことだ。これは素直に、本当にうれしい出来事だった。Ra Pollには他にも [Top live acts of 2016] に寺田創一が、[Top reissues of 2016] にKota SuzukiによるソロプロジェクトKSの過去作品が選出されるなど、例年以上に国内勢の健闘が目立つ年となった。自分自身、ほんの10年ほど前まではいわゆるランキングやチャートといったものに対し、どちらかというとシニカルなスタンスを取っていた方だったが、もはやSNSすら退潮を迎えつつある今の時代において、発信者としてのトレーニングを積んだ少数の人格で形成されたメディアが、自発性と責任を持って選定基準を設け、長期的なサイクルの中で優れたプレイヤーを選ぶということは、今まで以上に意義のあることのように思える。そういえば確か似たような事をボブ・ディランがノーベル賞受賞スピーチで語っていたように記憶している。話がそれた。DJ NOBUにはぜひ来年もRA Top 100 DJsにランクインしてほしい。周りのDJたちもそれに続いてほしい。

 今さら実例を挙げるまでもないと思うが、2016年は世界のあちこちで「ちゃぶ台返し」が起こった年だった。その根底には主にG8参加国のマジョリティにうっ積する「変わらないことへの怒り」があったように思う。20世紀型の人道主義・平等主義を疑い、徹底して冷徹に(これが曲者なのだが)マクロな功利に準ずることこそが社会をよりましなものへと向かわせるだろうという、パッと聞いたところは現状の最適解に聞こえなくもない理屈ではあるものの、実際にはおよそ根拠も内容も立証しがたい、いわば妄執としか言いようのない観念に、あまりにも多くの人たちがからめとられているように見えた1年であった。「自分や周りの連中が努力している程には報われていないように見えるのは、偏った考え方に基づいた、時代遅れで不均衡なシステムや社会制度によるものだ」というわけだ。おそらくこうした傾向は2017年も続くだろう。身も蓋もない心情の吐露と、物事の核心を突く話を混同するような、今風に言えば「POST TRUTH」というのだろうか、そんな人たちが近頃とにかく目につく。もはやそうした思潮に数で勝つことは難しいだろう。疑心暗鬼は他者への不寛容を生み出し、自分と異なるスタンスの人間の行動を制限する制度を望む者が増え、ほうっておけばどんどん社会が窮屈になっていく。実際にそういうことはこの時代のこの世界で同時多発的に起こっているという実感がある。今ここでこうして語っている自分自身、今後そのような欲求に取り憑かれないという保証はどこにもない。

 だからこそこの社会における自分たちにとってのアジール(避難所)たる「パーティー」が必要なのだ、と言いたい。パーティーカルチャーの歴史をストーンウォール以降から俯瞰してみると、現存のパーティーにはアジールをアジールたらしめるのに必要な要素のいくつかが足りない、かもしれない。The Black Madonnaはかつてインタビューでこう語っていた。「ダンスミュージックは、その幸福感の中にいくらかの不快感を必要としている。傷口に塗られる塩、子育てに苦闘する母親の心、現状にうんざりしている性的少数者やティーンエイジャー、40代の女性のメンタリティ、作家や批評家、学者や歴史家たちが」。(原文リンク:https://www.djbroadcast.net/article/121812/the-black-madonna-manifesto) 確かにこうしたエッセンスは優れた影響力を持った文化的集合体の多くに内在し、反面、ダンスミュージックやパーティーカルチャーには恒常的に不足している感がある。けれどもそうした不完全性も含め、自分はパーティーというものに希望を持ち続けたい。もちろん現代社会のアジールとなりうるものは必ずしもパーティーという形態をとらなくてもいいとは思う。形はどうであれ、読書会でも映画鑑賞会でも、それこそ食事会だったとしても構わないだろう。ただ今この文章を書いている自分や、読んでいただいている皆さんの何人かにとっては、それがダンスミュージックでありパーティーだったということだ。ただSNSをはじめとしたオンラインコミュニティはもはや今後はアジールにはなりえないだろう。それだけははっきりしていると思う。あと映画鑑賞会みたいなことを企画する時は、著作権管理団体には気をつけた方がいい。また話がそれた。

 自分は2014年の年末には翌年の見通しなど何も立っていなかった。2015年の年末は前の年以上に先行きが不透明だった。そして2016年の年末を迎えた今、よりいっそうこの先に暗雲が立ち込めているようにも感じられる年の瀬ではある。それでもまだ、この先の世界をうっすらと照らすかがり火は燃えつづけている、と思いたい。いや、燃やしつづけなければならないのだろう。目を覚ましたら飯を喰らい、外に出かけ、食いぶちを探し、知り合った人たちに関心を持ち、疲れたら眠るのだ。そんな毎日の生命の営みの中に、音に身を委ね踊ることを位置づけるのだ。パーティーを続けよう。