m-floとしてデビュー以降、ポップスからアンダーグラウンドまで日本の音楽シーンを牽引してきた☆Taku Takahashi。音楽に関する経験値豊富な彼の記憶のしおりとなった音楽はいったいなんだったのか?キーワードは90年代。ハウスもテクノもヒップホップも多くのジャンルが隆盛を極めた時代だ。☆Taku Takahashiが今回挙げた4曲は多くの人のSOUNDTRACK OF LIFEでもあるのではないだろうか?

今回☆Taku Takahashiには、世界的プロデューサーCalvin Harrisがチューニングを施した「MASTER TRACKS XC」を試聴してもらった。Calvin HarrisはAIRで開催されていた☆Taku Takahashiの主催するパーティー「Tachytelic Night」で初来日を果たしていたこもあり、稀有な巡り合わせが実現した。


Interview & Text : yanma (clubberia)
Photo : 難波里美 (clubberia)

SOUNDTRACK OF LIFE #01
Deee-Lite - Groove Is in the Heart

- なぜ、さまざまなジャンルが隆盛を極めそれが90年代に集中したのか?という問いに☆Taku Takahashiは、こう答えてくれた。
「1つでは語れないと思うけど、まずはレイブカルチャーが自然発生して様々なアーティストが生まれてきたっていうのが大きな要因だと思います。その中に同時に起こっていたのが、その人たちが使う機材やテクノロジーの進化、ビジネスとしての興行の進化もそうですね。あと90年代後半になってインターネットも一般的に広がりだしたのも要因があるかもしれません。そういったもののミクスチャーだったように思います。
あと、景気も関係しているかな。70年代、80年代のイギリスやアメリカは景気があまり良くない時代でした。良くないものに対してのカウンターとして生まれたクラブミュージックと共に経済も良くなっていき、影響力が大きくなっていったというのがあるんじゃないでしょうか。」
そのような時代の中で生まれたこの曲も、☆Taku Takahashiの音楽性に大きな影響を及ぼしている。

☆Taku Takahashi:
ひょっとしたら若い子は知らない人もいるかもしれないので、説明するとTEI TOWAさんがいたニューヨークのグループです。僕がちょうど高校生の時かな。CISCOで不思議なジャケットが置いてあって店内に流れていた記憶があります。

僕は当時、A Tribe Called QuestとかDe La Soulといったヒップホップが特に好きだったんです。ハウスなどだとStrictly Rhythmとかも好きでした。もちろんこれらは流行っていたんだけど、そういった時代にちょっと普通じゃないものが出てきた!って思ったんです。しかも途中でQ-Tipがラップしだしたり、ブレイクビーツを使ったりしているけど、ブレイクビーツがハウスからすごく離れているわけでもなくて。すごく不思議な雰囲気があったんです。

ちょうどこの頃、音を作りだしながらDJとバンドを両方やっていて。バンドはダンスミュージックのテイストが混ざったものを作ったりしていました。だからDeee-Liteのような多様性というか、1つのジャンルじゃなくて、いろいろなものが混ざった感じがもともと好きだったので影響を受けていていたんですよ。

アメリカではヒップホップとかR&Bのカルチャーがすごく大きくなっていったけど、Deee-Liteの音楽には、わりとレイブカルチャーを強く感じました。アルバムとか聴いているとすごくレイビーな曲があったり、ピアノリフが強いものとかがあるんですけど、そういったものがアメリカでヒットした最初の方のアーティストなんじゃないかなと思います。しかし、CISCOで買ったこのレコードが、後にビルボードで1位を獲るなんて。ほんとすごいですよ。

SOUNDTRACK OF LIFE #02
Shaggy - Mr. Boombastic

- 当時のバンドではドラムを担当していた☆Taku Takahashi。機材にサンプラーやシーケンスも取り入れるなど、前述しているように多様性のある音楽を作っていた。また、この時からVERBALもバンドメンバーであった。
そしてハウスエナジーというフジテレビの番組にバンドで出演することとなる。そこで5社くらいからオファーがかかったそうだが、☆Taku Takahashiは進学を理由にオファーを断ったそうだ。

☆Taku Takahashi:
物理の勉強をしたいから無理です。みたいな (笑)。何言っているんだって今なら当時の自分に言うと思うんですけどね。でも当時は、音楽で食べて行こうとは思っていなかったんです。どちらかというとジェットコースターを作りたいと思っていたんです。女の子とデートした時に、遊園地ほど人に刺激を与える面白いものは無いと思ったんですよね。ジェットコースターの演出ってDJミックスみたいなところあるじゃないですか。山作ったり谷作ったりちょっと安心させるとこ作ったり。展開とか構成を考えるっていうのが僕はすごく好きで。もともとエンターテイニングなことしたいなって思っていて、その中でジェットコースターっていうのが普通じゃなくて面白いなって思ったんですよね。だから大学で物理を専攻したんだけど途中で電卓を触るのが嫌になってもう無理だって断念したんですけどね(笑)。

それで、当時ロスの大学に行っている時にラジオでよくかかっていたのが、Shaggyの中でもすごくヒットした「Mr. Boombastic」なんですけど、この曲は留学してなかったら好きにならなかったと思うんです。チャラい曲だと思っていたんです(笑)。僕はその頃、Mobb DeepやWU-TANG CLANなど、わりとハードコアなヒップホップとかがかっこいい、それ以外はちょっとどうかなって思っていました。
ある日、ちょうど夕日がサンタモニカ通りに見えた時にその曲が流れて始めて、場所や環境によって曲の印象って変わるんだなっていうのを実感させてくれたんです。本当に夕日と音楽が気持ちよくマッチしていたんです。

その考えは今でも続いていて、その国のサウンドシステムのチューニングや環境によって変わるんだろうなと思っています。場所によって固いテクノが流行っていたりトランシーなものが流行っていたりするように、好まれる音楽って環境によって変わってくるから、サウンドシステムのチューニングが変わることによって、その場でヒットする曲も変わってくるのかなと。
あと気持ちのチューニングもですね。僕がこの曲を好きになった時みたいに。天候とか気分によって聴きたい曲って変わってくるように。

SOUNDTRACK OF LIFE #03
MONDO GROSSO - Give Me A Reason

- ☆Taku Takahashiが3つ目に挙げたのは大沢伸一によるプロジェクトMONDO GROSSOだった。当時21歳だった彼は、まだロサンゼルスの大学に在籍しており、出会いは現地のレコードショップだったという。その他にも、ちょうどアシッドジャズという言葉が出ているタイミングであったり、〈Mo'Wax〉からDJ KRUSHやDJ VADIMなどのアブストラクトヒップホップやトリップポップなどが流行った時代だった。

☆Taku Takahashi:
大学の頃によく聴いていた音楽の1つがMONDO GROSSOなんですよ。当時アメリカに行ってすごく愛国心が芽生えたんですよね。アメリカっていういろんな文化が混ざっている、いろんな人種が集まっている中に入ると自分のアイデンティティーというものをすごく意識させられるんです。その時に自分は日本人だ、日本の良いものってなんだろう。食べ物もそうだし、文化やいろいろなものをチェックしていたんです。ちょうどそのタイミングでMONDO GROSSOやUFO、TEIさんがデビューしたり、PIZZICATO FIVEがワールドツアーを行ったり。他にもEL-MALOや沖野さんなどといった面白い人たちがいっぱいアナログを出していて、そういったアーティストのアナログがアメリカでも買えたんですね。アメリカの友達に日本にもこんなにかっこいいのがあるよっていうのをDJをやりながら聴かせるのがすごく楽しかった。学校そっちのけで昼に起きて、日本食のランチを食べて、漫画買ってレコ屋行って、それで家に帰って漫画読みながら買ったレコードを聴く。なんか僕の中のスチャダラパーのイメージみたいな生活ですね(笑)。

音楽をすごく楽しんでいた時期だったんですね。その時にすごくグサッと刺さった曲がMONDO GROSSOの「Give Me A Reason」だったんです。すごく心をキュンとさせながらも音色とか1つ外しがあるんですよね。キックとかハットとかそういう音じゃなくてスネアがすごい!このスネアの音選ぶかっていうような音を選んでいて。この曲は、MONDO GROSSOの『Born Free』っていうアルバムに入っていたんです。1枚通してすごく独特な世界観があって、それをまたロスで聴くっていうのが気持よくて。ロスで自分がイメージする東京っていうのがあって、その感じも今の自分にすごい刻み込まれているっていうのもあります。

SOUNDTRACK OF LIFE #04
Roni Size - Brown Paper Bag

☆Taku Takahashiは、ロサンゼルスでの生活の中で再び日本を見つめ直すこととなる。そして当時、アメリカのアーティストやクリエイターなどと接する中で、日本はすごく洗練されていると感じたと語っている。しかし、同時に日本人ならではとも言える欠点も話してくれた。日本に戻り音楽活動を再開することとなる☆Taku Takahashi。そして1999年、25歳でm-floとしてデビューを果たすこととなる。

☆Taku Takahashi:
当時、日本にはヒップホップやR&Bっていうものがまだそこまでなかった時代だったんです。ポップスの中で僕が好きなヒップホップやR&Bのアレンジを加えられたらいいな、むしろそこにチャンスがあるように思っていました。そして、その段階から徐々に動機は進化していって、ダンスミュージックやR&Bをどうやったらお茶の間に広げられるかを考えるようになって、それがミッションになっていったんです。
でも、そうなるともともと楽しくヒップホップやR&Bを聴いていたのに、だんだん研究対象になっちゃって。。。デビューはできたし、食っていけるようになるのはいいんだけど、ちょっと楽しくなくなっちゃった時があったんです。
その時にドラムンベース、Roni Sizeをよく聴くようになるんです。Roni Sizeがやっているサウンドや、ドラムンベースというサウンドが当時すごく実験的なことをされているタイミングで、なおかつとてもポップでもあったと思ったんです。もちろん日本のポップス界で流したらヒットするかどうかなかなか難しいかもしれないけど、でもいろんな人が聴いていい曲だねって思える要素がすごく入っていて。メロディーもそうだし打ち込みもそうだし、低音の体感部分もすごく良くて、ふと気づいたんです。俺、なんか仕事で音楽をやり過ぎているなって。むしろ大学にいた頃の方がもっと音楽を楽しんでいたなと。

当時のロスもそうだしアメリカもそうですけど、日本の方が洗練されているとは思うんです。でも向こうの方が、こうしなきゃいけないみたいなのが少なかった。日本だと、当時は今よりもさらに何かを作る時はこの機材を使わなきゃいけないとか、そういったルールに関して敏感だったと思います。だから、これだけいろいろなモノがコンパイルされる国だったのに、新しいものが生まれ難いというところが当時はあったんじゃないかなと思います。アメリカの方が変てこだけど面白いねっていうものがあったのかな。特に僕がいた環境っていうのはオルタナティブっていうのが常に認められていたから。