JOAQUIN "JOE" CLAUSSELL (Spiritual Life Records/NYC)
1996年"Spiritual Life Records"を設立。完成度の高い作品を多数リリースし続け、世界的に絶大な人気を得る。JOEの音楽に対する姿勢は、商業主義に徹した現在の音楽シーンとは一線を画し、カリスマ的人気を誇っている。また、彼の全身全霊を注いだ超絶エフェクトミックスプレイは、聞く者の心を高揚させ、ダンスフロアーを熱狂的空間へと変える。彼の音楽に込められた情熱やその奥深さ、そしてスピリットは、時代を超えた普遍的な輝きを放っている。
ジャズ、映画音楽、クロスオーバーなどを聴き育ち、Eumir Deodatoからインスピレーションを受け、8才から曲を書き始める。1998年EMI/Virginに移籍。アーティスト名をAKとし、4枚のアルバムをリリース。2001年より活動の拠点をNYに移し、Francois K & Eric Kupperにより"Say That You Love Me"がリミックスされ、NYのレーベル"King Street Sounds"より全米デビューシングルとしてリリースし、世界中のチャ-トで堂々の1位を数多く獲得。日本からNY、そしてNYから世界に羽ばたいたジャパニーズディーバといえる。
I Feel Love / Donna Sumer
ディスコミュージックにシンセサイザーを持ち込みミュンヘンサウンドを確立した、Georgio MoroderプロデュースによるDonna Summerの名曲。お馴染みのアルペジオグルーヴはどこかで聞いたことがあるはず。
It's Alright (I Feel It) / Nuyorican Soul feat Jocelyn Brown
KENNY DOPEとLOUIE VEGAによるプロダクション。ハウスに加え、幼少期から慣れ親しんできたルーツであるジャズ、ヒップホップ、ラテン、サルサをブレンドしたプロジェクト。Jocelyn Brownの声がパワフル。
Lovin' is Really My Game / Brainstorm
疾走感溢れるトラックに女声ボーカルが乗るフロア受け抜群のディスコ。出演者の中では、DANNY KRIVITがかけそう。Timmy Regisfordの定番クラシックスとも言われている。
This Time(Bomb MIx)/ Chante Moore
疾走感溢れるトラックに女声ボーカルが乗るフロア受け抜群のディスコ。出演者の中では、DANNY KRIVITがかけそう。Timmy Regisfordの定番クラシックスとも言われている。
Ain't No Mountain High Enough / Inner Life
Ashford & Simpsonによるソウルの超名曲をディスコサウンドでInner Lifeがカバーしたもので、Jocelyn Brownが生涯最高とも呼べる圧倒的な歌唱力で歌いきった不朽のダンスクラシックス。
He Is The Joy / Donna Allen
「EMMA HOUSE 2000」にも収録されたDONNA ALLEN最高傑作。ソウルフルでパワフルな歌声とピアノの旋律は、1999年度を代表する、永遠に愛され続けるドラマティックな名曲。
knight Of The Jaguar / Aztec Mystic
説明不要のDJ RolandoのAztec Mysticによる21世紀の新デトロイトクラシック「knight Of The Jaguar」。デトロイトソウル全開の泣きのシンセストリングス。テクノDJにとっては一家に一枚的な名盤。
Say That You Love Me / AK (FK-EK japanese vocal mix)
ゲストライブで出演するAKの超ヒット作。日本語で切ない恋心を綴った歌詞を哀愁たっぷりの美声ヴォーカルで歌い上げた。そのストレートな歌詞と極上メロディーに多くのリスナーを魅了した。
The Right Time (JEPHTE'S KING STREET VOKAL) / MONDAY 満ちる
アフロでアップリフトなジャジートラックに日本の歌姫、MONDAY 満ちるの歌が光る逸作。躍動感溢れるセクシーなダンスチューン。
2002年5月、日本に初上陸し今年で10年という歴史を築いて来た「Body&SOUL Live in Tokyo」。この節目に、DJを招聘するまでやその時々のエピソード等を紹介しよう。Text:T.ISHIHARA (brand new made)
●2000年1月
brand new made inc.設立から7年が経ち、会社を継続するには強力なコンテンツが必須であると考え、当時自分が夢中になっていた「Body&SOUL」と「JUNIOR VASQUEZ」を呼ぶことを決意。
●2000年4月
NY在住のDJ GOMIに頼み「Body&SOUL」終了後に、NYのVinylの裏口でフランソワを出待ちし、挨拶と話しは出来たのだが彼曰く「僕はDJプレイをした時はパーティの話しはしないから、また来てね」と明後日帰国するにも関わらず、軽くあしらわれたのが最初だった。
●2000年5月〜2001年7月
この頃にはほぼ2、3ヶ月に一度はNYへ通っていた。金曜日にNYへ入り2、3軒クラブ周りをして、土曜日は早い時間に大型クラブへ行き、日曜日の朝からTWILOのJUNIORのアフターに行き昼過ぎのラストまで踊り、その後、休憩して夜はVinylの「Body&SOUL」へ行きラストまで楽しむの自分なりのNYスタイルだった。これまではいつも帰りがけに挨拶をするだけだったが、フランソワもさすがに4〜5回位会うとも自分のことをやっと覚えてくれた模様だった。
●2001年8月
いつものように「Body&SOUL」終了後、挨拶をして帰ろうとしたらフランソワが"あなたは何をしたいの?"と俺に問い掛けてきた。"ついに交渉のチャンスが来たぞ"と思い、率直に"Body&SOULを東京でやりたいんだ!"と想いをぶつけ、その場ですぐにミーティングの約束をした。彼の要望はDJ以外のダンサーやサウンドシステムからバルーンの色やスポンサーの種類まで"非常に大変だよ"と言う通り、予想以上に彼の要望はとても細かったのを今でも鮮明に覚えている。とにかく全ての要望をクリアーするという意気込みだけでその時は帰国した。
●2001年10月
フランソワの来日公演にあわせて会場候補を視察。「恵比寿ガーデンホール」「新宿リキッドルーム」をロケハンするも結局見送りになり、その時は本当に日本で開催出来るのか非常に焦っていた。その時フランソワが「新木場ageHa」の前身である「Zepp Tokyo」で1日でクローズしてしまった「mother」の代替え場所としてプレイした六本木の「velfarre」はどうですか?と俺に問い掛けてきた。当時は完全なDISCOスタイルの箱だったが、空間が良いからサウンドシステムを追加して2日間やるのはどうかと提案してきた。その時は、どうかなと内心とても心配だったが、開催が優先の為、すぐに「velfarre」と交渉して、ついに2002年のGWに「Body&SOUL Live in Tokyo」の開催が決定。
●2001年11月〜2002年4月
会場に対して懐疑的な意見もあった中、音響、照明、デコレーション、PR、スポンサー、全国への配券等、NYサイドと「velfarre」との取りまとめは本当に大変だった。NYのアンダーグラウンドと東京のDISCOという究極の対極だったので、最初はサウンドシステムやライティングのセット図はもちろん、配線図まで出して欲しいと言われて、"そんなのはありません"と「velfarre」に言われ絶句したこともあった。その後、最終的にスピーカーを32ヶ追加し、バルーンは4,000ヶ以上の設置が決まった。スポンサーが付いていたこともあり、予算よりもフランソワのリクエストに応えることが最優先だった。「Body&SOUL」は当然ロイヤリティが発生するのだが、フランソワに"2日分くださいね、DJも2日プレイすれば2回分ですからね"と言われ、さすがNYビジネスだなと感じた。
●2002年5月2日&3日
あっという間に開催当日になり、NYと同じように16時オープンながらすでに楽しみで待ちきれないお客さんは昼頃から並び始めていた。フロアではまだ音やデコ等の調節が続き、音響のレベルの問で特にドープリアルのピークでフランソワとの意見が合わず、NYサイド〜PA(浅田さん)〜自分〜PA(箱)と緊張を通り越した緊迫状態であった。しかもオープン時間はすでに過ぎ、外には500名以上のお客さんが待っているという状況で、「velfarre」のPA(大村さん)をなんとか必死になだめつつ、階段までやエレベーター前までと、少しずつお客さんを入れ、結局1時間半押しくらいでオープン。真っ先に入場したお客さんがフロアに次々と駆けつけ、まだオープニングの緩めの曲にも関わらず、ドンドンと足を踏み鳴らしたり、指笛やDJの名前は叫ぶはで早くも熱狂的なファンでフロアのボルテージは高まる一方だった。DJの3人もそれに答える形で、ウーハーを鳴らすとお客さん全員が両手を上げて一気にヒートアップ状態。結局そこから約10時間は自分にとって、そしてお客さんにとっても本当に夢のような一晩だった。実際自分の仲間には、この日の記憶を永遠に留めておきたい為に、クラブにはもう行かないという人もでいたほどだった。そして、これは色んな人に伝えているんだけど、この時、上から見たフロアは銀河のように人が渦を巻いていた。この光景は一生忘れないだろう。正に「Dream come true...」というフレーズが当てはまる瞬間だった。
この15年に渡りとても多くの時間を日本で過ごしてきた。自分の妻は日本人であり、多くの家族や友達が日本にいる。彼ら全てが無事であることは大変喜ばしいことだが、実際は全く影響を受けなかった人はいないだろう。絶え間なく続いた大惨事と恐ろしい出来事のあと、世界中全ての人々が、心配に足を止め、助けたいと思っている。だからこそ私は、何かもっと出来るはずだし、今こそ、助ける為に立ち上がる時なのだ、ということを人々に訴えていきたい。日本の皆さんは、強く団結してこの事態を乗り越えると私は信じている。I Love Japan!
●Joaquin Joe Claussell
日本の大切な友人でもあり、家族でもある皆さんへ。皆の家族や友人が、この日本という美しい国で起きた惨事に見舞われていないことを祈っているよ。僕は皆が体験したこの惨事に対する痛みや恐ろしさを言葉で癒す事は出来ないし、失ってしまったものに対する代わりになるものは無いことも理解しているけれど、今、世界が1つになり日本にいる皆と試練を迎えていることを認識することが重要だと考えているんだ。そう、だから君一人で立ち向かうことではないんだ!そして、同時にこの惨事は誰か一人のためだけに向けられた地球の怒りではなく、人類に向けられた怒りだと認識することも重要と考えている。僕達はかなりの長期間に渡り一方的に、そして過大な負担を地球にかけたために地球の怒りが徐々に増幅し噴き出してしまったんだ。現在直面している苦しみは必然的に起きたことだ。だから僕達は地球からのメッセージに耳を傾けるためにこの現実を見つめなくてはならないんだ。さもなければ、ニューオーリンズ、インドネシア、ハイチなど日本でも起きたことと同じことが又起きてしまうだろう。そう、だから一人だけで立ち向かうのではなく、僕達は皆一丸となり、この現実を正視しなくてはならないんだ!僕達はこの惨事が一刻も早く終焉を迎えることを祈っているよ!そして、僕達は皆が何かを信じる気持ちと幸福を取り戻すための支援をするつもりだよ。また、そういった支援は人として、何よりもしなくてはならない物事の最優先事項だ。誰か一人の痛みは、僕達皆の痛み、誰か一人の悲しみは、僕達皆の悲しみ。
そして。誰か一人の幸福は、僕達皆の幸福。僕達はファミリーだよ、そして we Love You.多くの人々の代表として。