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Lisa "Left Eye" Lopes

TLC

「問題の多い」、「きらびやか」、そして「自発的」が一番うまくLisa “Left Eye” Lopesを言い表す言葉かもしれない。フィラデルフィアに生まれ、父親がアメリカ陸軍に所属していた為、世界各地で暮らした経験があるLisaは1990年代、音楽シーンの最も重要なトレンド・セッターの一人となった。大人になってから彼女はアトランタに移り住み、Cameo、Jermaine Dupri、XscapeやKelly Priceなどといった大物ミュージシャンを送り出した盛況な音楽業界と深い関わりを持ち、Lisaと二人のバンドメイト、Tionne “T-Boz” WatkinsとRozonda “Chilli” Thomasでアトランタを一躍有名にした。
元々Second Natureという名前でTionneとLisaは組んでいたが、後にChilliが加わり、それぞれの名前のイニシャルをとって“TLC”として活動を始めたのをきっかけに、ビッグネームになっていった。そんなTLCをアトランタのクラブで発見したのがPebblesという人気歌手で、直ちに彼女達とレーベル契約をした。シーンに登場してまもなく、TLCはスーパープロデューサーのKenneth “Babyface” EdmondsとPebblesの元夫L.A. Reidが運営していたAristaの新レーベル、LaFaceに移り、大ブレイクした。Pebblesから奪い取られたTLCはそのクリエィティブなスタイルとカラフルなファッションで90年代のサクセスストーリーへと成長し、1992年のデビューアルバム、「Ooooooooh On The TLC Tip」から3つのメジャーヒットを次々と送り出した。こうした成果を出し、Lisaはスターの道を歩み始めたが、彼女を取り巻く話題は尽きなかった。1995年、大喧嘩をした後にLisaは当時の恋人Andre Rizonの家に放火した出来事は世界中のニュースの見出しに載ってしまった。5年の執行猶予と社会復帰訓練所でのセラピーを受ける刑を下された彼女はその事件を名前から消す事ができず、Lil Kimと共にヒップホップ界の”バッドガール〟的な存在として見られ続けた。そしてその同じ年、未払いの印税とPebblesに契約不履行で訴えられて多額な借金を抱えていた為、TLCのバンドメイトと破産申告をした。続いてリリースしたセカンドアルバム、「Crazy Sexy Cool」では今までの子供っぽいイメージを捨て、メジャーレコーディングスターらしい、大人の雰囲気を表した。1100万枚のアルバムセールスを誇り、アルバムは10年来で最も売れたアルバムの一枚となり、グラミー賞を2部門受賞し、3つのヒットを記録した。
アルバムのプロモーションが終わるとLisaは様々なプロジェクトに参加し、スターを発掘する才能がある事でさらに名が知られるようになった。R&B トリオ、Blaqueの良き指導者となり、プロデュースまで手がけ、BlaqueはTLCと同じようにヒット曲を出しただけではなく、『Bring It On』という映画に出演するなど、良い結果を出した。Blaque以外にも多数のビッグアーティストのプロデュースに精を出し、Montell Jordan、Melanie "Sporty Spice” ChisolmやNSYNCなどと仕事をし、ユニークなボーカルや見事な音楽スタイルで業界の中で人気の高いスターとなった。しかし大変な少女時代を経験した彼女はこの頃から平和と穏かさを求め始め、ホリスティックやスピリチュアル治療で再出発する事を決心した。そんな中でホンジュラスを訪れたLisaはアメリカと全く違う世界を見つけ、1997年に中米を襲ったハリケーン・ミッチの犠牲者の救済プロジェクトに関わった。治癒小屋やチャイルドセンターを建て、Lisaは純粋で新鮮な世界とつながりを持つ事ができた。1990年半ばにアフリカのヒーリングドクターとの出会いで彼女は自尊心と義務感に目覚め、何度もホンジュラスに足を運んだ。1999年にリリースしたTLCのサードアルバム、「Fanmail」のプロモーションが終わると、Lisaはバンドメイトと距離を置くようになった。公の場でメンバーと口論をしている姿が見られるようになり、Lisaはソロアルバム、「Supernova」の制作に一生懸命取り組んだ。イギリスや日本で大ヒットし、トップ20ヒットとなったシングル、「The Block Party」が収録されていたこのアルバムは世界各地でリリースされたものの、ラジオプレイが少ない事を理由に、アメリカではリリースされなかった。常に変化を求め続けていたLisaはその後、通称名N.I.N.A.(Not Into Name Alternatives)でアルバムをリリースする為に悪評高いプロデューサー、Suge Knightと契約を結んだが、このプロジェクトは実現されなかった。
4月25日、木曜日、数年間「我が家」と呼んでいたホンジュラスの村から戻る際、ローマという町の近くで彼女が運転していたSUV車が道からそれて衝突してしまった。同乗していた他の7人の内4人は重体となり、近くの病院に運ばれたが、Lisaだけが即死だった。数年前に養女として迎え入れたLisa の娘は天涯孤独となり、早すぎる死を悲しむファンを大勢残し、Lisaはこの世を去った。