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liquidroom presents "PLAY, JAPAN! Red Bull Music Academy" SOUL Ⅱ SOUL SOUND SYSTEM

2011.11.27 sunday afternoon
at LIQUIDROOM
access→http://www.liquidroom.net/access/
open/start 16:00 end/close 22:00
adv.(10.15 on sale!!)* 4,500yen door 5,500yen(with flyer 5,000yen)
*PIA[P-code 153-226]、LAWSON[L-code 76554]、e+、BEAMS RECORDS、bonjour records Daikanyama、DISC SHOP ZERO、DISK UNION(SHIBUYA CLUB MUSIC SHOP/SHINJUKU CLUB MUSIC SHOP/SHIMOKITAZAWA CLUB MUSIC SHOP/KASHIWA CLUB MUSIC SHOP/IKEBUKURO/KICHIJOJI/MACHIDA/YOKOHAMA-NISHIGUCHI)、JAZZY SPORT MUSIC SHOP TOKYO、JET SET TOKYO、Lighthouse Records、LOS APSON?、TECHNIQUE、LIQUIDROOM

+SOUL Ⅱ SOUL SOUND SYSTEMのライブ・パフォーマンスはDJスタイルで行います。
+10歳未満の方は入場無料。

info LIQUIDROOM 03-5464-0800 http://www.liquidroom.net

まさか僕がこうしたイントロダクションを書く日が来るとは思わなかった。僕、といっても誰のことか知ってる人は少ないだろうから、若かった頃に1980年代後半から始まったUKのダンス・ミュージックの洗礼を受けた世代の人間として自分を規定しよう。
今回来日するソウル Ⅱ ソウルは元来サウンド・システム/DJクルーで、ロンドンでの彼らのパーティは1980年代半ばには既に評判になっていた。特筆すべきは、その後レコーディング・アーティストとして世界的な成功を収める前の1987年、日本にDJとして来日したことで、同時期のワイルド・バンチ(マッシヴ・アタックの前身)と共にそのプレイは当時の混沌しながらもファッショナブルな(褒め言葉!)東京のクラブ・シーンを直撃した。その後今回来日するジャジーBはイギリスのブラック・カルチャーを世界に紹介したという理由で勲章までもらうわけだが、感心したのは、2004年のニューヨークはデザイナー・ホテルのハロウィーン・パーティでの予期しなかった彼のプレイだ。いわゆる70年代のソウルをメインにプレイするサウンド・システムとして有名になった彼らだが、そのときのジャジーBのプレイは、素早いながら品を崩さずどんどんパズルをはめていくように、ハロウィーンのコスチュームしか見当たらない(当たり前)会場をノン・ストップで踊らせていた。たぶん、今回のプレイはその後の来日に沿ったもう少し音楽に焦点が寄ったものになると思うが、どんな音楽をプレイしても華やかさが全体から聞こえてくるのは、普通のDJには出来ないこと。それにドラッグ臭さとも無縁。ここは重要。僕と同世代のみなさんは、僕と同じで若くはないのだから(失礼!)、駆けつけシャンパンも控えめにして、ドレス・アップでたまには思いきり踊るのはいかがでしょうか?ドレスにヒールもOK。いやいや、僕はいたって真面目だよ。年とったからって遊びに行かないなんてばかばかしい。もともとパーティは働いた者の楽しみの権利。そして、ジャジーBのプレイを初めて聞く若い世代は、音楽の価値判断基準にはハード・コアということ以外にもあるのだと、それ前提に楽しみに来てみたらいかがでしょうか?・・・って、DJ評論?
今回の来日を知ってから、楽しみで笑いがとまらない。なんでだろう?たぶん、ダンス・ミュージックの無邪気さと関係があるんだと思う。あの純粋無垢な衝動とやら。
荏開津 広(ONE HAND CLAPPIN’)

■JAZZIE B (SOUL Ⅱ SOUL SOUND SYSTEM)
Jazzie Bとその友人Daddaeは、彼らが若干13歳の頃、Jah Ricoというレゲエ・サウンドを始め、その3年後にSoul II Soulが誕生した。“Soul II Soulという名前は、俺らの音楽だけを意味するわけではなく、Daddaeと自分自身をも意味する―つまり、一緒に寄り添う2つの魂という意味もあるわけだ。”当時のSoul II Soulはローカルレベルでの人気は確立していたが、資金がまだ必要だった。18歳の時にJazzieは、Tommy Steeleのテープ・オペレーターとして働き、時に風当たりの厳しい音楽業界で働くことのできたわずかな黒人の内の一人であった。”いら立ったこともあったけど、ある意味俺らが一切興味を持たない業界の側面を見ることはできたね。なぜなら俺らは常に最先端で活躍したかったから。そこで働くことは自分自身を鍛えてくれたよ。”

1980年代にはアシッド・ハウスという新たな音楽ジャンルが旋風を巻き起こした。”俺らはアーリー・サウンドとしてまるでアートのような存在だった。普通のスピーカーは一切使わず、ハウスパーティではフロアで花火を打ち上げ、旗やストロボ使っていたんだ!”その後、Soul ll Soulは、ロンドンのコベントガーデンにある、今では伝説的なAfrica Centreでライヴを行っていた。レコード会社が彼らに追いつくまでにそうは時間はかからなかった。

Soul II Soulは1986年に<Virgin>と契約を交わし、‘Keep On Moving’や‘Back To Life’などのヒット曲でチャートを賑わすことになる。UKや海外、そしてロンドンのKiss FMのJazzieの番組を通じて、数多くのレジデントクラブナイトを展開した。1990年、彼らは2つのグラミー賞を獲得し、JazzieはLA、NY を含むアメリカ7都市へ渡ることになる。国境を超えたアメリカでもSoul II Soul時代が到来するのである。

Soul ll Soulは<Motown>とレーベル契約を結び、その後<Epic>とプロデューサーとしての契約を交わすことになる。 Jazzie BはSoul ll Soulのためのヒット曲を生み出しただけでなく、彼はプロデューサーとして、またリミキサーとして、The Fine Young Cannibals、James Brown、Public Enemy、Sinead O’Connor、Ziggy Marley、Nas、Destiny's Childなどに楽曲を提供していた。Soul ll Soulは、世界的に680万枚のアルバムセールスを記録。そしてJazzieは、世界100カ国において3500万枚のアルバムセールスを認められ、NYのUniversal AmphiTheatreなど、世界中の有名な会場でも公演を行った。Jazzieは現在、ロンドンのスタジオにて、独立系レーベル<Soul ll Soul Recordings>の運営を行っており、BBCラジオの番組をレギュラーで担当している。2008年5月、“英国のブラックミュージックに貢献した人物”としてIvor Novello賞を受賞。同月、英国王室より30年に渡る音楽業界における貢献を称えられ、OBE(大英勲章)を与えられる。女王陛下により授与された初めての音楽人であり、おそらく最も価値のある勲章となったに違いない。