INTERVIEWS

CHIKA & AKIRA

Chika & Akira:シーン無いなら自分達で始めてしまえと思って、自宅に友達を誘ってホームパーティーのような形から遊びの延長でスタートしました。 Chika:大学時代カナダに留学していたんですが、そこには当時まだトランスパーティーのような物が存在しておらず、シーン無いなら自分達で始めてしまえと思って、自宅に友達を誘ってホームパーティーのような形から遊びの延長でスタートしました。

Akira:僕も同じ時期にカナダに留学していて、友人に「日本人でテクノのDJやってる、おかしなヤツが居るから…」と言われてChikaの事を紹介されたのがきっかけで、彼の家と僕の家とで交互にホームパーティーを始めたんです。その頃のカナダって、カリフォルニアから 音楽が上がって来るだけで、とても偏った音楽シーンしか無かったんです。ダンスミュージックに関してはハッピー・ハウスのようなものしか有りませんでしたし、トランスなんて聴いた事も無い連中ばかりで、始めは10人程度の友達だけの集まりだったのが、回を重ねて行くうちにどんどん人が来始めて、自宅で出来るレベルでは無くなって来てしまったんです。全然知らない人達迄家に押しかけて来てしまうような始末で、これはもっと大きな場所を借りてやらないと収拾が着かないという事になり、会場を借りて始めるようになりました。それが96年頃の話です。 Chika:いや、ただ自分達の家でやっていたレべルなので名前なんて付けていませんでした。

Akira:で、初めて会場を借りてパーティーをする事になった際に「名前どうしようか…!?」と言う事になり「ソルスティス」を名乗るようになったんです。 Chika:学生時代、帰国した際にはEQUINOXのパーティーで良く遊ばせてもらっていたんです。次第にDJとかもさせてもらったりもして…そんな中、カナダに残っていたAKIRAから「本格的にやるにはそろそろ名前付けたほうが良いんじゃないか?」と相談されて「EQUINOX(春分/秋分の意)にあやかって、僕らはSOLSTICE(夏至/冬至の意)ってどう?」って提案したんです。

Akira:2つ返事でOKして即決しました。 Akira:僕はChikaと出逢う迄はトランスとは無縁だったんです。彼との出会いで一気にトランスにのめり込んで行ったクチで、それまではHIP HOPのDJしてました(笑) Chika:カナダの前には15歳からイギリスの全寮制の学校に2年間留学していたんです。その後ロンドンにも2年間居たんですがその頃のロンドンって丁度CLUBや、レイヴカルチャーがもの凄くさかんな時期だったので、若さに任せて夜遊びに行くんですが、どれもイマイチ楽しく無くて…。レイヴカルチャー全盛のロンドンのパーティーは規模が大き過ぎて友達と一緒に居ても逸れてしまったり、一体感を得る事が出来なかったんです。そんな中、友人の知人が勧めてくれたのが、当時のGOAパーティーと言われる所だったんです。そこはとても居心地が良くて、カラフルなデコレーションや、チルアウトエリアにソファがあったり、チャイ屋が出ていたり、ジャグラーが居たり皆フレンドリーで凄く楽しかったんです。明らかに他のジャンルには無い、新鮮な感覚と楽しい空間に一発でハマってしまい。当時そんな所に居る日本人なんて殆どおらず珍しがられて良く話しかけられたので、周囲にあっという間に溶け込め毎週のように通い始めるようになったんです。行けば、そこには次の週に開催されるパーティーのフライヤーを配っている人が居るし、それを頼りに情報収集をしていました。一番印象的だったのは「ペイガン」というパーティーで、マークアレンが主催していました。他にもよく言っていたのが「パンジム」というパーティーで、そこでの出会いから様々なコネクションが出来て行ったんです。実はこのシーンを紹介してくれた友人の知人というのが、DOMINOのお母さんで「娘は今、東京でダンサーしてるのよ」なんて話をしてくれて… Chika:DOMINOがロンドンに戻って来た時なんかも、そんな繋がりから一緒にパーティーに行ったりもしていました。他にも未だ学生だったDIMITRIや、当時T.I.P.のA&RだったANDREなんかとつるんで良くレコード屋巡りをしたり、MIKE MAGUIER や、DRAGONFLYのYOUTHのDJとかのパーティーで遊んでいました。 Chika:あと、もう一つ現在のコネクションと繋がって行くエピソードとしては、ソルスティスのもう一人のパートナーでもあるDANDANが当時、東京からパリに移って来たんです。休みの日にパリを訪れた際「ロンドンのこのムーヴメントはパリでも絶対流行るよ!」とか言ってたらパリには「Trance Body Express 」というパーティーが既にあって、当時GOAに通い詰めていたアーティスト達のコミュニティとして存在していたんです。そこでイギリスだけでなく、フランスのトランスコネクションとも繋がりが出来て行き、その後気がついたらDANDANはいつの間にか「T.B.E.」のオーガナイザーになってしまっていました。(笑) Chika:その前に1年間日本に戻って来たり、半年インドを旅したりという事をしていました。その際、良くEQUINOXのパーティーで遊ばせてもらったり、DJをさせてもらう機会を貰っていたんです。今迄ロンドンや東京でトランス三昧だったため、暫くそうした環境から離れ大自然で過ごしてみようと思い、カナダに留学するんですが、やる事が無くて結局すぐに退屈になてしまい、自分達が楽しむという目的でパーティーをオーガナイズする事になってしまうんです(笑) Chika:客として楽しんでいたほうが全然楽しかったですし、自分でこれをやろうなんて思ってもいませんでした。

Akira:当時のカナダでは自分たち以外にトランスを知っている人なんて誰も居ませんでしたし「やらざるを得ない」というような状況で… Akira:僕らがカナダに行っている間、日本のトランスシーンも90年代前半のうねりから一つの時代の変わり目のような状況に来ていて、その頃の日本のシーン最前線で活躍していた人達がどんどんPARTYをやらなくなり始めた時期だったんです。で、自分たちの遊び場がやはり欲しかった中、トランスのパーティーをやるならGIOIDだろうと思って、僕らDJと共にEQUINOXに協力してもらって、KOTARO、DOMINOというメンツで初めてのSOLSTICEをやる事が出来たんです。

Chika:そしたら、大成功しちゃって… Akira:普段300人で一杯になるようなキャパに1,000人来ちゃって…そこから調子に乗って、定期的に始めるようになったんです。あれが無かったら今ソルスティスやってないですね…(笑)

Chika:その後初めての野外パーティーを99年に、再度EQUINOXに協力してもらって岐阜県の南木曽にあるキャンプ場でXAVIER、KOTARO、と僕らと言うラインナップでやらせてもらいました。更にその年の秋には水上のキャンプ場でフェスティヴァルという形をとって、開催しました。学生時代に様々な野外フェスを世界各地で経験する度に「日本にもこういうフェスがあれば良いのになあ…」と常に思っていた矢先、前途したように帰国後そうした野外フェスを行っていた、レインボ−2000、EQUINOX、マツリプロダクションと、日本のシーンの第一線を築いてきたオーガナイザーが次々と辞めてしまった時期で、僕ら的には遊ぶ場所を完全に失ってしまったし、これ迄このシーンで楽しんでいた人達からの要望も有り、必然的に本格的なオーガナイズをせざるを得なくなって来たんです。

Akira:そんななか、手探りでやってきた僕らも2000年のミレニアムを境に、色んな意味で意識的にも社会状況的にも様々な変化があった時期で、事務所を立ち上げて積極的にシーンを盛り上げて行く状況に突入するようになりました。 Chika:レーベルも、DJというスタンスから考えて、日本でのトランスミュージックの普及が余りにも乏しく、日本発信のレーベルというのも殆ど無かったのと、自分たちが良いと思う物を世の中に紹介したい、広めたいという事から、これに関してもパーティーを始めた時と同じで、無いなら自分たちで作ってしまえ!的な考えで立ち上げました。

Akira:DJをやっていた事もあり、オーガナイズよりもレーベル運営にむしろ興味があったという部分も有りますし、DJ同士の交流から、未発表の曲を貰う機会も多く、こうした音源を世に出してあげたいと言う気持と使命を感じていた部分も有ります。 Chika & Akira:若い世代を応援しながらシーンを作り上げて行くと言う選択をしました。 Chika:2002年に初めてZEP東京を使ってイベントを打ったんです。その時がZEPがオープンして以来初めてオールナイトイベントとして会場を貸し出すという日だったのですが、この日は僕らにとっても、今迄の規模からこうした大箱を使う初めての経験で…

Akira:1,500人のキャパに、あの時は3,000人もの人が押し寄せてしまって…

Chika:普通この規模になるとイベンターがきちんと取り仕切る物なのですが、基本2人だけで対応していたので収拾付かなくなっちゃって…会場サイドから後でもの凄く怒られました。(笑)ほんと、手探りで毎回色んな事を学びながら今日迄来た感じです。この時の経験から、大きなイベントを打つ際にはイベンターが必要だったり、セキュリティを雇わなくてはいけなかったりと、今迄自分達が「遊び」としてやってきた事では通用しない責任感を伴う規模になっている事を痛感し、きちんと会社として社会的なシステムに乗っ取って勧めて行かなければ行けない部分を学んた事が、僕らに変化をもたらして行きました。 Chika:表富士での野外フェスの際はまだ、結構遊びの延長のような気分でやっていたんですが「まあ3,000人も来てくれたら嬉しいよね」とか思って、蓋を開けてみたら6,000人来てしまって… その時は、様々な要素から思い出にも残っているし、突如不思議な雲が現れたりとマジカルな内容で、印象深く、自分達もお客さん達と一緒にパーティーという物を楽しんだフェスティバルでした。

Akira:僕も表富士でのパーティーが、一番印象に残っているし、オーガナイズをしながらも、心底楽しむ事が出来たパーティーだと思っています。 Akira:はい、なので次回からはもっと大きな会場を探さなければ…というロケーション探しから、インフラの整備、やらなければならない事や、責任感の増大により、2002年以降の野外フェスでは自分達が今迄楽しんでいたような感覚では全く楽しめなくなって来てしまいました。 Chika:そうですね(笑)フェス開催に向けてやらなければならない事があり過ぎて、DJをしている余裕なんて全く無くなってしまいました。

Akira:レコードをチェックする時間も全く無くなってしまったし、オーガナイズor DJのどちらかを選択せざるを得ない状況でした。良いほうに考えれば、その頃は若いDJも沢山出て来たし、そうした若い感性で音のセレクションをしてもらったほうが良いのではないかとも考え、僕らにはRYOも居たし、僕らはオーガナイザーという立場に徹し、若い世代を応援しながらシーンを作り上げて行くと言う選択をしました。 Akira:DJをしていた当時も、自分が「このアーティストの曲カッコイイ!」と思ったら、積極的にプレイして皆に紹介したいと思ったのと同じで、フェスにこのアーティストを呼んだら絶対盛り上がる!と言う拘りの部分はDJの時もオーガナイザーの時も同じ心境ですね。 Akira:決定的だったのは2002年の本栖キャンプ場でのSMF開催の時で、正直「これが終わったらもう2度とフェスなんてやらない」と思っていました。開催中ダンスフロアに全く行く事も出来ず、終わってからDVDを観せられて「こんなに凄かったんだ..」というのを初めて観せられたんです。 Chika:表舞台はDVDで観るように1万2千人のヴァイブレーションが素晴らしい空間を作り上げてくれた最高のフェスティヴァルになりましたが、それを支える裏方の部分では様々な問題が起こっていて、その対応に追われてしまい、本部から一歩も外に出れない状況でした。これだけの人が予想以上に集まってしまった事で、駐車場が足りなくなってしまい、急遽近隣の駐車場を手配しなければならなかったのが最大の原因だったのですが、東京の弁護士とやり取りをしたりと、僕ら的には全く楽しめる要素のない、かなり苛酷な2泊3日になってしまいました…。 Chika:元々は自分達が楽しむ為に、音を探してDJをしてというスタンスから、段々と会場を借りて、集客数を気にし始めてという方向になって行くに連れ、もの凄くダイレクトに自分達のやった事の結果が跳ね返って来るようになるわけです。そう言う中で、ある時期から、このアーティストを呼べば人が集まる。というのが見えて来た時に、「自分達が聴きたい、観てみたい」というだけの物でなく「お客さんが求める物を観せて行く」という方向になり、それを成立させる為にはより大きな会場が必要になって…と、そう言う所から昔は自分達が好きな事だけをやっていた筈が、やりたく無い事迄やらなければ行けない状況に陥ってしまた時期がありました。トランスに限らず、こうしたアンダーグラウンドなカウチャーは、初期のアットホームな空間から徐々に育って大きくなって行くんだと思うのですが、ほとんどのシーンは規模の拡大とともに、アットホーム感が薄れてしまう物ですが、海外のトランスシーンでは5〜6千人集まる大規模なフェスティヴァルでも、アットホームな雰囲気をきちんと維持したままの楽しいパーティーがあるので、日本でもそれは実現可能だと信じています。なので今年のSMF2008は、2000年に表富士でやったフェスのイメージを描きながら、シンプルで、アットホームな誰もが「来て良かった!」と楽しめるような空間を目指しています。

Akira:10年間の中では、初めて事務所を立ち上げた時には未だインターネットもままならない状況で、世の中のほんの一部の人達がE-メールアドレスを持ち始めた初期の頃でした。こうしたインターネットの革命的な進歩の時代とともに、僕らのやって来た事も急激に加速して行ったわけですが、人が未だ理解を示さない時期から、メディアに取り上げられてブームとなって沢山の人が来るような時期から、様々な状況の中で盛り上がる時期も有ればそうでない時期もある。そんな中やり続けるには周りに左右される事無く、世の中の変化と共にスタイルは変わりつつも、結局自分達の好きな事をやって行くのが一番良いんだと言う事ですかね。そしてこうしたテクノロジーの進化に流されてしまわずに、それを良い方向に利用して常に新しい事にチャレンジして行ければと思います。 Chika:そうした今迄築いて来た10年間の記録が今回写真集と言う形で出来上がりました。当時のアート性の高いデコレーションや、マジカルな雰囲気を捉えた時代の記録、日本のパーティーシーンの歴史をみるような作品になっているので、今迄の10年僕らを支えてくれたファンの人には是非持っていてもらいたいと思う1冊ですし、最近トランスを聴き始めた人達には、昔はこんな風だったんだよ。というものを感じてもらえればと思います。

■SOLSTICE MUSIC 10YEAR ANNIVERSARY BOOK
http://www.solstice23.com/releases/2008/05/solstice_music_10year_annivers.php Akira:パーティー後に励ましのメールを貰ったり「ありがとう」と声をかけられたり…結局、お客さん達の声が一番の原動力ですよね。じゃなきゃ、あんな大変な事やってないですよ(笑)