INTERVIEWS

半野喜弘

RADIQ名義で最初からやりたかったことは、僕の中にあるいろんな言語の問題、人種の問題を音楽として表現するってことでした。そういった環境の中で自分が生きているってこともひとつの影響だったと思います。例えば「ボーダー=国境」がいろんなものにある。人種にあって国にあって音楽にもあって、でも僕たちはあまりずっと意識せずに生きてきたと思ったんです。それは、日本人って「日本と外国」といった区切りを持っている。ここの国とここの国っていう区切りじゃなくて「日本と外国」っていう大きな区切り。その考え方を取り払いたかったのが「PEOPLE」の制作当初にありました。アフリカ人のラッパーを入れてフランスの白人がやっているテクノレーベルで全然違う音楽をリリースしてみたり、繋がらないものを繋げることで何か新しい人と人の関係や音と音の関係が出来ないかって。でも実際にそれをやってみたら、かなり表層的なことだったんですね。それは、一つの手段だったというか。自分の中にある文化から得たものや自分の中の国境を崩すということを、ここ3年ずっと考えていたんです。でもなかなか答えが出なかった。その間に12インチの制作をするなど、ジャンルの幅をフロアーよりにした中で何が出来るか?といった実験的なこともやっていました。そしてやっと自分の中で辿りついた結論が今のスタイルだったんです。そこでやっとアルバムをつくることになったんですよ。この音楽とこの音楽の中からってことではなくて、僕が生きてきた経験してきたことの中から自分のボーダーっていう、いろんなものを取り払っていろんなものをそこから摘出してきたっていうかそれを合わせて未来に向けたものをつくりたいなって思ったんです。
ニューソウル期のあの時代が持つ「熱気」が好きなんですね。人が何かを突破しようとするエネルギーが凄くあった時代。アメリカでは公民権運動があってパリでは5月革命があった。そういう「熱気」をどうやったら今の自分の音楽の中に盛り込めるのだろう?っていうのが今回のアルバムの一番の目的だったんです。たまたま僕は、1968年生まれ。マーティン・ルーサー・キング牧師が亡くなった年です。子供の時にまだあまりわからずに買ったレコードがスティービー・ワンダーのアルバムだったんです。そのレコードの中にスーツを着た短髪の黒人のポートレートが入っていたんです。アルバムジャケットのスティービー・ワンダーとは、ずいぶん違う感じだなーって思いましたがその人物がマーティン・ルーサー・キング牧師だと知らずにずっとそのポートレートを壁に貼っていたんです。(笑)子供の頃から、そういうものに興味があったんですよね。それが何かのタームでちょうど自分の子供が生まれたってこともあって自分が生まれた年にも興味が湧いていろんなことが一つになって、そういうものを音楽で表現出来ないかって思ってたんです。 RADIQに関しては、わりと有機的な方法論をどれだけグルーブの中に持っていけるかってことをメインに考えてつくりましたね。もちろんテクノロジーなしには、成立しないんですがより肉体的な感覚をフロントに持っていきました。GADARIは、メカニカルなテクスチャーをつかってサウンドスケープをつくるっていうテクノロジーがわりと全面に出ている感じ。DARTRIIXに関しては、田中フミヤとお互いのイマジネーションの一致とすれ違いでドンドン面白くなっていく感じですね。 今年は、op.discにとって節目の年というか一度リスタートをかけた新しいスタートの年だったんです。とくに初期から関係してくれたアーティストや僕たちが応援したい、もしくは自分たちのレーベルにとって良いと思うアーティストに声を掛けてコンピレーションアルバム「Hub opus tokyo」が完成しました。「参加してくれた全てのアーティストが一同に集う、そんな夜があったら良いよね」って想いから参加アーティスト全員に出演してもらおうとレーベルショーケース「Hub」8/14(金)恵比寿LIQUIDROOMが企画されたんです。今、いろんなメディアが複雑になって情報の選択肢が凄く多いじゃないですか?だからリスナーが一つのものをチョイスするってことが複雑になって来ている。アーティストサイドから言うと自分の制作した音が良いカタチでリスナーへ届けることが凄く難しいんですよね。届ける方法はある、だけどちゃんと届いてない。結局は、今後自分たちが日本でこの音楽を絶やさず続けていくためには、自分たちが良ければ良いって考え方ではもの凄く短いタームでの話になってしまう。(田中)フミヤクンともよく話すんですけど田中フミヤ、半野喜弘、吉田タロウの3人でレーベルを立ち上げたけど、結局「田中フミヤ」ってことでもなくてドンドン、レーベルの顔になっていくアーティストの年齢が若くなっていって僕たちがいなくたって何の問題もなくなるっていうのがレーベルの理想形なんです。僕らのすぐ下の世代ではAOKI takamasaが頑張っていて、さらに下の世代ではDICHやAkiko Kiyamaが頑張っている。さらにその下も出てくるような、ちゃんとその世代ごとの層になったところでの強さがないとね。そういう力がある若手アーティストってたくさんいると思うんですよ。でもアーティスト自身の問題もあると思うんです。やっぱり、こんな状況の中で頑張っても跳ね返ってこないじゃんっていうふうに虚無感を持っているアーティストもいると思います。いいDJしていいパーティしても跳ね返ってこないっていう。ちょっと視点が変わればまた違うカタチになって行くんだとも思うんですけどね。まぁ結局は、アーティストそれぞれの問題であるとも思いますけど頑張ってほしいですね。
まさしくそうだと思います。日本って音楽をファッションを通じてトップダウンする方法論が昔からありますよね。音楽をファッションにしてパブリックに落としてしまえといったような。そうじゃなくて、もっとストレートに音楽として浸透していく文化が出来ればね。ファッションは、その周期でそのスタイルがダメになったりすることってあるじゃないですか。物事ってそういうことじゃないと思うんですよね。良いモノがあって、そうしてまた良いモノがあるっていう。モノを売ることになると、これが新しいっていうことの材料にするためにこれはもうダメっていうメディアのやり方がある。そのやり方じゃあ、モノが繋がっていかないと思うんです。流行じゃなくなってしまったモノがダメなわけじゃないのにダメにするような。特に音楽をファッションと結び付けるのは、そういう意味で非常に難しいと思うんですよ。良くも悪くもちょっとした嘘をいれる、それが足かせになっているようなね。 8年前からパリに住んでいますが、単純にヨーロッパでやってみたかったんです。いろんな言語の混じったところで生きてみたかった。もっといろんなものが、あるところでモノの見かたも変わるんじゃないかと思いました。直接音楽のスタイルがどうってことよりかは、物事の捉え方が変わる。音楽に対する自分の価値とか音楽をどういう側面から見ているのか?とか変わると思うし必然的に音楽の形態そのものも変わっていく。向こうでは、主にヨーロッパ各地でのLiveや発想面での制作をしていますね。東京とかって人や情報が多いじゃないですか?それに比べてモノをつくるときは、そういうのが少ない方がやりやすいっていうのもありますね。ヨーロッパは、国と国との距離も近いし2時間あれば隣の国へ行けちゃうんですよね。でも何処に住んでいるってことは差ほど問題にならないとも思います。僕は、いろんな国のミュージシャンと今までセッションしてきましたが現段階では日本人とやるのが一番上手くいく!第一言語が使えることで自分が伝えたいことが伝わる。第二言語で伝えるより、最後の10%が伝わるんですよね。ヨーロッパには、技術の高いミュージシャンがたくさんいるんですけど必ずしも自分が目指した音楽が実現できるわけではないんですよ。
今までは、たくさんの音を使える可能性があるということを有益に捉えて音楽をつくってきたんです。コンピュータのプログラミングの音も含めてね。でも今回は、ポイントを一つ濃密にするために他のモノを捨てるってことをやってみよう、人が聴いたときに新しいと感じる音を捨てようと思いました。じゃあ何を使おう、例えばドラムマシーンも含めた普通のドラムの音、ギター、エレクトリックピアノ、ピアノ、オルガン、パーカッションあとはストリングスなど管楽器。ようするに誰もが知っている音と人の声だけで制作する。それは、何故かというと新しいモノっていずれ古くなるじゃないですか?だったら音色として新しい要素が無くてよければ古くならないって思って。もちろんスタイルは、古くなりますけどね。だから、今までまわりから「この音はどうですか?この音は聴いたことがないし新しい!」って言われていたことを止めようと思ったんです。誰でも使える音でやろうと思って、楽器に関してはほとんど生のモノを使いました。編集用にコンピュータをつかったぐらいです。でも打ち込んだトラックに生楽器を乗せただけになると有機的に絡まないんですよ。それを回避するためにスケールに対して楽曲を違うスケールでつくったり。テンポを計算してそのまま弾いてもナチュラルな音をだったら2つ上のテンポにしたキーで録音する。その時に一音をコードの中のテンションとして凄くブルージーにしたい。そしたらそれ用に違うキーを設定してそれをつくってそれを二つ落として違うキーに最終的にあてはめる。それを弾いているんですけど、あたかもサンプリングしたりとか不安定な状況で演奏したような仕上がりになるんです。だからこのトラックでこの上に演奏した人って一曲位しかないんです。だから実は、このアルバム用としてこの3倍のトラックがある。そういう意味では、もの凄くテクノロジーを使っているんです。普通のミュージシャンが絶対にやってない方法でね。だから普通に演奏した感じになっている。これってどうやって弾いたんだろう?と他のミュージシャンは思いますね。弾いているっていうか、この音ギターにないよ!ってね。ギターの一番低い音より低くなっている音だったり、この音からこの音に飛べないとか質感も含めてですけど。生楽器を使っているのにテクノロジーが無かったら出来なかったのが、このアルバムなのかもしれませんね。ギクシャクした楽器と楽器の関係性って必要だと思うんですけど日本人って自分も含めて少し苦手なんですね。ナチュラルに美しくキレイにまとめあげるってことに長けている人種で乱暴な感じに弱いと思うんです。いかに音と音のぶつかりあいを乱暴にするかを考えた方法論がこのテクニックだったんですよ! 山ほどいるんで語り尽くせないんですけど、今回のアルバムに関していえばソウルミュージックの一部のモノから大きな影響を受けていてそれをなんらかのカタチでフィードバックさせたいと思っていたんです。スライ&ファミリーストーンのアルバム「暴動」以降の何枚かのアルバムが僕にとって凄く意味のあるアルバム。どうしてあんな風に不安定な音なのに肉体的で強度があるんだろうってずっと疑問だった。いろんな資料を調べていく中で凄いと思っていたボーカル音の経緯があるんですがボーカルのスライがドラッグで動けなくて泊っていた部屋にトランシーバーを設置してベッドの中で唄ったという、やもおえず録音した音にその経緯も知らずに僕は、何十年間も憧れていたんですよ。その一件もあって物事、どういう切り口で捉えるかといったことをもう一回自分の中で考え直さないと、テクノロジーが進化したことで自分の野生の感みたいなものが鈍っているんだなと思ったんですね。僕にとって象徴的な話なんですが「整理されていないモノ、聴こえないモノの中に気配があってその気配が音楽全体の気配をつくっている」という。聴こえてないモノの要素って緻密に考えないとね。ここ10年間の音楽っていうのは、削って削ってだから音質が良いってことだったじゃないですか?そうじゃなくて必要な気配をどういう風に設計していくか?というのが僕の次の課題なんです。まあそんなことを感じさせてくれたスライだとか70年代のマイルス・デイビスやボーカリストでいえばカーティス・メイフィールドが凄い好きですね。あと何故か最近は、マーヴィン・ゲイばかりをひたすら聴いていましたね。それと同時にクラシックも聴きますし。ザワザワした音楽が好きな反面、それだけだとやっぱり疲れるのでミニマルのスッとしたシャープな静寂感も逆に好きなんです。グルーブのあるものを聴いてミニマルも聴く。 去年、オーケストラ作品を半年間スイスの街にこもって制作してその初演もやったんです。60人程のオーケストラのメンバーに自分がつくった楽曲を演奏してもらうって作業的には本当に面倒なことでした。各セクションごとに一つ一つのフィロソフィーを伝えないと演奏が出来ないんですよ。僕が書いた100ページに及ぶスコアを第二言語で説明するのに5時間位かかったのでモノ凄いストレスでしたね。(笑)でもそれをやって僕が一番発見したことはコンテンポラリーミュージック、ようするに現代音楽のクラシカルであるオーケストレーションの扱い方が限りなくテクノミュージックの打楽器の音程配順に近いんですね。それは、音をどうデザインしていくかってことが現代音楽の中で重要なタームを持っていて12音っていうものが、どうハマれるかっていうのが20世紀の音楽の課題でもあったと思うんです。でもテクノっていうのは最初からそれを自然に持っていて12音以外のフィーリングを打楽器の連打でなんとなくピッチがあうっていう。コンテンポラリーミュージックが20世紀を通して追求してきたことなんですよね。それをテクノというのは、機械をつかって自覚なしにもっとシンプルにやっている。そのことがわかって、オーケストラ作品をつくる時に自分がテクノをつくっていたというリズムの方法論が通用するしその逆も出来ると思ったんです。だからテクノを聴くリスナーがオーケストラ音楽を聴くと結構好きになると思いますよ!同じようにデザインされていますから。オーケストラって長いタームで徐々に徐々にビルドアップしていってどこにクライマックスをつくるかといったそんなところもテクノに似ていますよね。 ジャケットアートワークについては、いつもデザインをお願いしている水谷君にRADIQの有機的な色合いやテクスチャーを持ちつつ、それがどれだけフューチャリスティックになるだろうかって常にオファーしているんですね。海外では、RADIQのジャケットが凄いとよく言われます、ドイツとかでね(笑)デザイン力も素晴らしいですが彼が凄いのは、本当に音楽が好きでその世界を表そうとしているから、そこに魂が宿る。そこが凄く良くてデザインをデザインするのではなく、音楽をデザインするって気持ちで制作している。「PEOPLE」に関しては、細かいものがジャングルの食物連鎖のように有機的に絡まっている。70年代のようにグチャグチャしていなくて21世紀に生きている僕たちなりの洗練された感覚と有機的なジャングルみたいな交わりをデザイン出来ないかって思って。コンピュータでピクセルごとにデザインしていると思うから、たぶんもの凄い時間かかっているでしょうね。(笑)「Hub opus tokyo」のアートワークに関しては、また全然違っていてタロウ君っていうコンセプチャルアート的な全てに意味を持たせるタイプのデザイナーが手掛けているんです。若手のトラックが持つ清涼感を表現しているような、黒より白って気がしますね。直線よりか曲線みたいなね。フミヤクンとかもみんなデザイン凄く好きやからつくるんやったらって、いつもデザインする人は、大変だと思う。「違う」とか言われて、「何が違う?」てね。(笑)デザインも音楽もファッションも深く結びついていると思うんですよね。その時代が持つエネルギーとか時代が求めているモノを一番敏感にダイレクトに発信するのって音楽とファッションだと思うんです。一番良いカタチは、こういう音楽を好きな人がこういうファッションに惹かれるといったようなことがあるし、同じ何かを求めているっていうのがあると思うんです。時代の中で移り変わっていくのも似ていますよね。最終的には、その洋服を着たらその音楽を聴いたからどんな気分になったかといったことがその時代をつくって行くんだと思うんです。 アーティスト同士でいうとこういうジャンルの音楽では、けして日本以外のアーティストが日本人のティストを認めていないとは思わないです。言語の問題とか肌の色の問題とか未だにハンディキャップがあることも事実ですが、DJもアーティストも音を届ける時に音だけじゃないモノって必ず付随しますよね。僕たちはアートだと思ってやっているその反面、自分自身もその中で売るってことになっているって否定できないことだと思うんです。田中フミヤのDJが良いその時に田中フミヤの人物自体、前には来ていなくても付随している。より一般層のリスナーになんらかのコンタクトをとって好きになってもらおうと考えた時に日本人が外国人にというのは、外国人が外国人に対して行うパフォーマンスよりどうしても劣ってしまいます。だからけして不可能ではないことなんだけど、簡単だとは言えないってことなんですよね。「だから僕たちは、それを超えられる位、より音楽の強度を上げていかなければならない、甘えていたら勝てないんです。自分を貫いていくために全部の面で強度を上げる!それは、音楽的にもそうで気に入って貰えなかったら次がないですからね。」フミヤクンなんかは横でDJやっているのを観るかぎり海外において彼は、それを一つ一つクリアしていっている。それは、人間的なことも含めてオーガナイザーや一緒にプレイするDJ、みんなに音も良いし人も良いし考えてることも素晴らしいって思ってもらってまた次がある。その雰囲気がオーディエンスにも伝わって「コイツいいよね!」っていう気持ちになることがあると思うんです。みんなに認めてもらうためには、そういったことをクリアしていかないといけない。海外って簡単に言うけどやっぱり厳しいですよ。アウェイな時の厳しさってもう折れそうになるよー。(笑) 一カ月半ほど滞在しているんですがレーベルショーケース「Hub」8/14(金)恵比寿LIQUIDROOMでの7人編成でのLiveを皮切りに3〜4カ所でLiveをします。パリから家族も来るんで子供と一緒にオフを過ごしたり、台湾に映画の打ち合わせに行くかもしれないですね。 
まだいろいろ考えているところですが10月後半には、バンド形態でのツアーも考えています。
フミヤクンとは、DARTRIIXの活動をしたいと話していますしGADARIのアルバム制作も出来たらなって予定しています。まだ確実ではないのですがフランスでオーディオヴィジュアルのシアターピースをやろうと思っていてビジュアル作品とストリングスカルテットとちょっとした室内アンサンブルとコンピュータをつかった40〜60分のピースをオペラハウスでやる予定です。今まで音楽ばかりやっていたけどこれからは、自分たちで映画制作をすることも将来的に考えているんです。音楽も映画と同じように頭から聴いて、終わった時に一つ自分の中に感じるものがある。脚本はもう書き終わっているので来年、制作に入れたら良いんですけどね!まだ今の段階では、夢やけどやりたいね。