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Alfredo & Jaime

Alfredo(以下A):私は1976年に、社会的・政治的状況のせいでアルゼンチンを離れました。私はジャーナリストとして、またロックンロール・コンサートのプロモーターとして地元の街ロサリオで働いていました。そのため、私は新世代への見せしめとして軍によって投獄されたのです。息子Jaimeの母親と共に、一週間拘留され、警察に尾行されていました。私たちは、そんな生活は送りたくないと決めたのです。
 
- もしアルゼンチンに留まってジャーナリストとプロモーターを続けていたら、それでもDJに興味を持ったと思いますか?それともそんなことは考えもしなかったでしょうか。どれほど違った生活を送っていたと思いますか?

A:興味を持たなかったでしょうね、DJシーンには一切関わっていませんでしたから。イビサに来た時も、自分がDJになるとは考えてもみませんでした。ただとても自由な島があって、そこではジョイントを吸っても起訴されることはないと聞いて来たからです。
- 実際にそうでしたか?

A:実際に来てみると、とても都会的かつ自然の豊かな島でした。そこではみんなが知り合いで、みんなが家に泊まりに来いと声をかけてくれた。私はアルゼンチンに、以前イビサに住んでいたことのある友人がたくさんいました。ですからすぐに友達もできて、家も見つかりました。人々のお互いとの接し方、関わり合い方が、全く違っていて新しく感じました。
 
- 到着してすぐに自分の居場所を見つけたようですね。

A:全くその通りです。ボートから降りて両足を島に着けた瞬間から、ここが自分のホームだという感覚がありました。

  - たまにはアルゼンチンに戻りますか?

A:これまでに4~5回戻ったことがあります。1回目は、7年イビサに住んだ後で長期的に戻るつもりでした。でも居られなかった。全く異なる国で、私も異なる人間になっていました。完全に場違いだったのです。アルゼンチンはずっと自由に、近代化されたと感じることができましたが、たくさんの経済問題を抱えていました。2回ほどプレイしに行ったことがあって、みんな私の音楽を気に入ってくれて素晴らしいクラブもあり、優れたDJもたくさんいて、大きなシーンがありました。とてもおもしろかったです。プレイしに行くようになってから、また行きたいと思うようになりました。

  クラブに夜遊びに行く人たちは、「ファミリー」という言葉の意味を知っている。音楽、雰囲気、お客さん、全てが上手く噛み合った瞬間、クラブは深い温かさと親密さに包まれる。

ここで触れておかなければならないのは、その感覚が薬物による刺激によって増幅される部分が大きいということ。いずれにせよ、世界各地の複数の世代にまたがる実に多くの人々が、朝4時のFabric、Hacienda、あるいはamnesiaで、片腕には親友をもう片腕には赤の他人を抱えながら、Andy Weatherallがプレイする「Bizarre Love Triangle」がかかるのを聴いた瞬間、それまでに感じたことのない「ファミリー」を実感している。まさに家族の感覚だ。

しかしJaime Fioritoにとっては、それはより文字通りの意味を持つ。彼はAlfredoの息子として1977年に生まれ、正式なイビサ育ちと言える育ち方をしてきた。父がレジデントを務めていたamnesiaや、その後はPachaに一緒について行き、急成長を遂げイビサを世界的に有名にした地元のダンスコミュニティの重要なメンバーとしてJaimeは育った。

僕が電話でJaimeと話したのはドイツでも特に厳しい冬日の午後で、彼が残酷なまでに暖かい地中海のイメージで僕を拷問する前に、まず心にひっかかっていたことを告白した。

 
- Jaime、言っておかなければならないことがあるんだ。実は僕はイビサに行ったことがない。

 ということは、君はイビサバージンか。なんと言ってあげたらいいのか分からないけど、僕はスペインで生まれスペインで育った。それから北ヨーロッパ、スイス、ドイツに8歳の頃引っ越したので、両方の側面を知っている。今もスペインが大好きなのは、まとまったカオス状態だから、と言って意味が分かるかな?経済は最悪で、みんな仕事がないのに、なぜかハッピーに暮らしている。少なくともイビサではそうだ。なぜか、毎回スペインに戻る度にとてもリラックスできる。僕がよく、特に冬場に旅をするのは、イビサが島だからで、島というのはあまり長く居過ぎると「島熱」にかかってしまう。
 
- では今はどこにいるの?

J:今はスイスの家族を訪問中。僕の母がスイスに住んでいるので。これからベルリンに寄って人に会ったりレコードショッピングをしてからイビサに帰る。
 
- あなたとお父さんは、年間の大部分そこに住んでいるの?

J:僕は過去10年ほどしょっちゅう出入りしている。1年間のほとんどをイビサで過ごす年もあれば、チューリヒやロンドンなどよそにほとんど住んでいる年もある。イビサ自体は本当に美しい自然がありPayesesと呼ばれる土着の人々が住んでいる場所で、彼らは島と共に生きている。僕らは彼らをスペイン語で「Gente de la Tierra(大地の人々)」と呼ぶんだけど、僕が島のとてもいい部分だと思っている。僕がイビサの、あるいはスペイン全体の好きではない部分は、80~90年代に土地が買い占められ、外国の投資家たちがたくさんの下らないものを持ち込んだこと。15~20年前には存在しなかった、安っぽい建築や広告で溢れ返っている。
 
- イビサそのものが商品化されてしまった感があるね。

J:全くその通り。島の美しさという観点から考えると、それが残念な部分ではある。
 
- 1つ僕が驚いたのは、初期のamnesiaでは入場料が無料だったということ。

J:85~86年頃、僕が8~9歳当時、amnesiaはただの地元のバーだったんだ。広々とした屋外のダンス・スペースがあって、仕事が終わった人たちがふらりと飲みに来るようなところだった。それに対してPachaは、当時から一部の人には少しシック過ぎる店だった。amnesiaはかなり広かったこともあって、入場無料にすることで集客していたんだ。

  - そして人気が高まるに連れて、Danny RamplingやPaul Oakenfoldのような人たちも訪れるようになったと。

J:そうなんだ。既にみんな知っていると思うけど、Danny RamplingやPaul Oakenfoldが「バレアリック」ビートを英国に持ち帰った。その話は僕にとっては正直つまらないね(笑)。

  - そういう環境で育つのはどんな感じでだった?ブームになる中でお父さんを見るのは?

J:とても楽しかった。子供なので、大人の世界に溶け込めている気がして。なるべく父について行きたいと思っていた。父は友達が多く、その友達にも子供がいたので、よく夜の早めの時間に行って他の子供たちとダンスフロアで遊んでいたね。父とずっと一緒にいることもあった。すごく楽しかったけど、夜の1時か2時になると眠くなってきて、クラブの事務所に行って仮眠したりしていた。7時か8時に目が覚めて、父のいるDJブースに行くと、クラブのお客さんたちは完全にクレイジーになっていて、いつになったら終わるのか聞いたりしていた。
僕が14歳の頃、お客さんの多くがミックステープを欲しがっていることに気づいて、たくさんのテープを作って売ることを思いついた。だから僕がクラブでテープの売り子をやった。それでだいぶ小遣いを稼いだね。それが音楽産業での、僕の最初の仕事。
- 10代の子が友達に大麻を売って小遣いを稼ぐという話はよくあるけど、あなたはお父さんのミックステープを売っていたんだ。

J:その通り。15歳になる頃には、父がかけている曲を全て覚えていたので、ある日クラブで父にこう言ったんだ。「あのさ、これなら僕にも出来ると思うんだ。マイクを貸して」って。そして信じられないかもしれないけど、父はマイクを僕に手渡してきた(笑)。僕がクラブで知ってるトラックに合わせて歌を歌ったところお客さんに大受けしたんだけど、しばらくしたらあまり受けなくなってきたので、クラブの人に「あの、申し訳ないけど息子さんにマイクを渡すのは止めてもらいたい」と言われた。

  - でもしばらくの間チャンスをくれただけでもいい話だね。

J:そう。だから、君の質問に答えると、とにかく楽しい体験だったということなんだ。そういう意味では甘やかされたと思うね、僕の年齢にはとても刺激的だった。
 
- 僕はあなたが甘やかされているとは言わないけど、そう言う人は多いだろうね。

J:多くの人がそう思うだろうけど、それはコインの表面で裏もある。ほとんどの人は僕をJaimeと呼ばずに、「~の息子」と呼んだし、DJをするにしてもなかなかチャンスがもらえなかった。というのも、ほとんどの人は「~の息子なんだから、自分が機会を与えなくても十分あるだろう」と思っていたからだ。最初から最後まで素晴らしいストーリーなんていうのは存在しないからね、常に良い面と悪い面がある。だから僕は幸せだと思っているけど、マイナス面もあったことは確かだ。
 
- あなたがDJになった理由はお父さんだと察するけど、常に影響を受けていた?

J:いや、そんなことはない。18歳になったとき、いわゆる反抗期になって。お正月もイビサには行かず、父親と正反対のことばかりやろうとした。だから凄いハードなテクノをプレイして(笑)。それが数年続いた。いつもDJになりたいとは思っていたけど、正直に言うとDJになりたかったのは音楽に情熱を持っていたからではなく、DJが出来ることを目の当たりにしたからだった。もちろんそれは大きな間違いだ。もしDJとして成功したければ、情熱を持って取り組まなければいけない。だから、これが本当に自分のやりたいことだと認識したのはもう少し歳をとってからだった。2000年、父と一緒に仕事をするようになった頃。

  「ユートピア」という言葉は、(かなり頻繁に)イビサと関連づけられて用いられがちであるが、大抵の場合「ダンス」という名刺接頭辞が付いている。私たちはこの言葉の意味をよく知っていて、楽園、完璧な場所だと思っているが、古代ギリシャ語では(あるいは辞書を開いてみれば分かるが)この言葉の本当の語源は、直訳すれば「存在しない場所」を意味する「Outopos」である。

この矛盾、あるいは両義性は、イビサを語る際にはむしろ適切であるように感じられる。究極の美しいパーティー旅行先として世界に知られながら、その真偽については常に様々な見方がある。このことについて、Alfredoに尋ねてみたが、再度僕は断りを入れてから質問した。
 
- 何度も色んな人にされている質問だと思いますが、あえて僕からも聞かせて下さい…

A:気にしなくていいよ(笑)。君の質問のほとんどは既に聞かれたことがありますから。
- そうですよね。お聞きしたかったのは、イビサがどのように変化し、現在の状況についてあなたはどう感じているかということです。

A:若い人たちにとってのイビサは、来た当初の私にとってのイビサと同じだと思います。自分が本当にやりたいことが出来る、自分の街では絶対に出会わないような人たちと出会える、そういう可能性のある場所。そういう意味では、何も変わっていません。島の内情を見れば、もちろん物価が大幅に上がり、プロ志向になった。人と人との関係性も、以前ほど親密ではなくなった。イビサも多様化したんです。イビサを語りたければ、本当に島のことを知る必要がありますね。

  - それはお聞きしたいと思っていたことです ―― 外から見たイビサ。多くの人、特に90年代以前から島に行っていた人たちは、全てが商業化され、全てが金のためになったと言います。

A:それを言うなら、世界全体がより商業化され、金目的になったと私は思います。私が島に来た時代と比較すれば、当然全てが商業的でプラスチックになりました。かつては、自分たちが楽しむために店をやっている人たちが多かったですが、ビジネスとしてはそれほど上手く行かなかった。でも誰も気にしていなかったんです。今は、イビサでディスコテックをやりたければ、相当な額の資金を用意しなければなりません。かなり狭いオーナーたちの輪で経営されていることを知らなければなりません。


J:一般的な見方として、イビサの物価が極端に上がったことは事実ですが、僕がクールだと思うのは、ベルリンやロンドンのように、イビサにもより小さくアンダーグラウンドなシーンが今も存在していることです。例えば、イビサに夏期のシーズン・バイトで働きに行くような若者たちは、クラブの入場料を払わず、ドリンクも通常タダでもらえるといいます。つまり、常にやり方はあるということで、そこは触れておくべきだと思います。

A:ええ、そこはとても重要な点ですね。イビサで働く人たちには、いろんな道が開けます。でもあなたの質問はそういうことではなかったですよね、観光客の視点のことでしょう?

 

 
- ええ、そうですね、それをお聞きしたかったのは僕自身がイビサに行ったことがないからなんです。ちょっと待って下さい、そもそも正しい発音はどちらなんでしょう、「アイビーサ」ですか、それとも「イビーザ」?

A:イビーザですね。
 
- つまり、部外者から見たイビーザのイメージは、90年代はとても盛り上がっていて重要な場所だったけれど、今は金に支配されているというものです。観光客を誘致して、ドリンク代や入場料、やること全てに対して大金を請求する。ある意味、魔法はもう解けてしまっている。

A:魔法は90年代と同じようにありますよ。90年代に来ていた人たちは、「ワオ、80年代に知っていた場所とは全然変わってしまった」と言っていたものです。80年代に来ていた人たちは70年代を懐かしんで同じことを言っていた。意味が分かりますか?
 
- いつの時代も、人々は過去の方が良かったと懐かしむものだと。


A:その通りです。私個人にとっては、もちろん大きく変化しました。自分自身も変化したし、たくさんの経験をしてきたからですが、80年代のことも90年代のことも知らず初めて訪れた人にとっては、今でも素晴らしい島です。当然のことながら、彼らは夏と冬でどれほど大きな違いがあるかということも全然知りません。  - 冬に開いているクラブはあるんですか?

A:多くはありません。大箱ではPachaだけでしょう。でも小さいバーや小さいディスコテックに行けば、ここに長く住んでいて本当にパーティーが好きな人たちが集まっていますよ。
 
- あなたもそうやって過ごしているんですか?冬は何をしてらっしゃいますか?

A:旅行をしたり、制作をしたり、6歳になる娘ローラの面倒を見たりして、夏に向けての準備をします。かつては毎晩遊びに行っていましたけどね、もう行っていません(笑)。もうここに住んで35年になります。毎晩働いて、週末ごとに遠征に行っていましたが、もう同じようにはやっていません。
冬は自分を見つめ直す季節だと思っています。その1年に犯した失敗から学んだり、翌年どうしたら改善できるかを考える。この1年は、自分の時間をいかに有効に使うかを考えていましたね。

 
- あなたの典型的なセットのスタイルは変化していますか、特に息子さんと一緒にプレイするようになってからは?

A:大きく変化しました。かつては、私がプレイすると誰もが何をプレイしているか知りたがるような存在だったんです。最近になってバレアリックと呼ばれるようになったスタイルで、音楽をプレイしてきました。他の人は知らないような音楽をかけるんです。私は誰も知らない曲をかけて聴かせることがとても好きでした。Jaimeは、私が知らなかった音楽を知るきっかけをくれたんです。私はいつもお客さんがDJに与える影響はとても大きいと思っていました。どんなにDJが客を気にしないと言っていてもです。私は気にしますし、彼らに楽しい時間を過ごして欲しいと思います。私たちはソウルフルな雰囲気で、お客さんがただ飛び跳ねているのではなく、音楽を楽しんでもらえるようにしたいのです。
私たちがSpaceでプレイするときは、4~5時間、オープンからクローズまでやります。一晩かけて、最初から最後までを通しでやれるのが一番いいですね。

 
- その際にお客さんを見渡すと、その光景はかつてと同じですか?

A:かつてはもっとたくさんの人がいる場所でプレイしていたので雰囲気は違いますね、もっとハッピーでオーセンティックでした。でも私たち、Jaimeと一緒にプレイしているところはテラスでとてもいいところです。かつてと同じように「誘惑」を受けることもありますよ。
 
- 誘惑とは?

A:お客さんから愛想を受けることです。かつてと同じような気持ちになりますね、amnesiaでプレイしていた頃や、「Manumission」の頃のような気持ちです。お客さんの幸せを感じるんです。今プレイしている場所でもそういう気持ちになります。これだけの変化を経験しても。
 
- ではもう少し歴史的なことを聞かせて下さい、Alfredoさん。Danny RamplingやPaul Oakenfoldたちがイビサにやってきて、「バレアリック」サウンドを聴いて、それをUKに持ち帰って、それが爆発的な人気を得てあの世代のレイヴァーたちがこぞってこの島を目指した。これがイビサの物語で、多くの人たちが聞いている話です。

A:私は、それには同意しません。イビサでも爆発的な人気を得ましたが、イギリスのシーンのようにメディアに取り上げられることがなかった。でもイビサにはドイツ人、南アフリカ人、スウェーデン人、あらゆるところの人たちが来て、88年の時点でイギリス人たちと一緒に踊っていたのです。amnesiaが始まったのが84年で、88年以前も満員でした。確かにイギリスの音楽産業のおかげでグローバルになったとは言えますが。
 
- それについてはどう思いますか?彼らが国際的な注目を集めさせたことを嬉しく思っていますか、それとも何かが奪われてしまったと感じますか。

A:ある意味、彼らのおかげで私は国際的に活躍できるようになりましたし、いいかたちでイギリスを知るきっかけになったと思います。向こうのシーン、産業、でももう一方で一部の人たちには利用されたかもしれないとも思います。でも、過去に起こってしまったことに対して何が言えるでしょうか?自然とそういうふうになったのです。
 
- もちろん、彼らのインタビューなどを読むと、あなたは中心人物、元祖レジェンドとして語られています。これは正しいと思いますか?あなたが、この世代の人たち全体に大きな影響を与えたと言われることは?

A:彼らがそう思ってくれているのはとても光栄なことです。でも私にとって光栄なことは、それほど知られていませんが、他の国の人たちにもこの音楽を紹介できたことです。「レジェンド」として扱われることは、プレイし続けることを難しくしますね。「レジェンド」という言葉は過去の人を指すので、もう終わっているみたいでしょう?人を指す単語として、とてもイギリス的な言葉ですよね。
 
- その答えと関係していると思いますが、あなたはもう60歳になろうとしています。そして世間には大勢の若いDJたちが出てきている。そのことについてはどう思いますか?

A:60歳になっても音楽をプレイするのは簡単ではない、それは事実です。でも私は音楽をプレイする立場にいて、今も同じように、自分の好きなことをやろうとしている。当然、30年前と同じ反応を求めているわけではありません、スタイルが変わっていますから。もっと若いDJたちは大勢いて、彼らの方が感覚が近いでしょう。若い人たちは、若い人同士で遊びたいでしょうから。
 
- 長い間イビサに住んできて、沢山の心に残る思い出があるかと思います。その中でも、一つか二つ特に記憶に刻まれている思い出というのはありますか?

J:たくさんありますね。でも2つとてもいい思い出があります。2001年の始めに、二人でPrivilegeというクラブの「Manumission」という巨大なパーティーでプレイしたとき。巨大というのは、当時イビサでは月曜の夜に1万人を動員していたということを踏まえて下さいよ。だから、これは本当に規模が大きかった。ただ着飾ってお客さんを盛り上げるために働いていたスタッフだけで50人いた。会場全体をコミックのような世界に作り上げるというアイディアで、僕たちはスパイダーマンの格好をした。今でもなぜそうしようと思ったのかは良く分からないけど。

A:Jaimeに同意しますよ、私もこのときのことはよく覚えています。

J:クラブの中は30メートルくらいの高さがあって、僕たちは天井から金属のコードのようなものに飛び降りて、スパイダーマンとしてDJブースに降りて行った。笑えたのは、父はDJブースに辿り着いたものの、僕は途中で、天井とブースの間の地上10メートルくらいのところでひっかかってしまった。スパイダーマンの格好をして、俺はいったいここで何をしてるんだろう?と自問した。これは最も記憶に残っていることのひとつですね。
もう一つ強烈に覚えているのは、それも同じ年で、もしかしたら同じ月だったかもしれない。僕たちはいつもSpaceのアフターパーティーを担当していて、この頃はクラブに屋根がまだなかったので、テラスでプレイしていた。すると確かオーストラリア人だったと思うんですが、女性と男性がやって来て、結婚したいと言ってきた。そこでプロモーターのMikeとClaire McKayがアフターパーティーで結婚式を企画した。彼らは午後の1時半に、ダンスフロアで式を挙げたんですよ、どれだけ盛り上がったか想像できるでしょう。
- お客さんはどれくらいハイになっていたんですか?

A:非常にハイでしたよ、だからおかしかった。この話の奇妙なマイナス面は、ここで触れるべきかどうか分からないけど、事実だから話しましょう。パーティーがクラブからビーチに移ると、周囲が変なムードだった。泣いてる人もいて、何があったんだろうと不思議に思った。すると、分かったのは結婚式とパーティーが起こったのは、ちょうど2001年9月11日の朝だったんだ。「ええ?その事を知らなかったの!?」と言われた。
 
- ハイなときに聞くには重すぎる話ですね。


A:ええ。そのまま少し遊ぼうと思いましたが、結局すぐに家に帰りましたね。Jaimeもそうしたと思います。

J:ああ。

A:もう一つ、とても古い思い出があります。雨が降り続いてamnesiaに40センチほど水が溜まったことがありました。屋外のバーだったからです。そこで300~400人ほどの人たちが雨の中踊っていたんです。あれは凄い光景でしたね。膝まで水に浸かりながら、それでも踊っていて、雨と嵐と音楽が響いていて、美しかった。JaimeもDJブースにいたと思うんですが。

J:それは覚えていないな。事務所で寝ていたのかもしれない。
■ミックス音源
http://www.mixcloud.com/CosmopolitanDance/dj-alfredo-x-the-heritage-project-the-past-present-future-of-balearic/

■DOMMUNE出演情報
5月2日21:00 - 24:00
Alfredo, The Heritage Project, 1-DRINKがDOMMUNEに出演致します。
http://www.dommune.com/


■来日公演イベントページ
http://www.clubberia.com/ja/events/207185-DJ-Alfredo-x-The-Heritage-Project-Japan-Tour-2013/