INTERVIEWS

199X〜2020
国内トランスパーティー史のはじまりを読む
- KOTARO - (前編)


Interview & Text:Hayato Onodera 
Photo:Kotaro Manabe


 1980年代。インド南西部に位置するゴアに大きな変化が訪れる。パーティーの主流はライブ演奏からエレクトロニック・ミュージックに。持ち込んだのは世界各地から集まったトラベラーたちだった。彼らがパーティーに持参したトラック群は、この地に70年代から続く資本主義のカウンターとして生まれたヒッピー&サイケデリックカルチャーと結びつき、その後ゴア特有の雰囲気を内包しながら独自の変化を遂げていく。ボディミュージックをはじめとするダンスミュージックを前身に、融合、変遷を繰り返し、90年代には再度トラベラーを通じて世界中にトランス・ミュージックの芽は広まっていった。
 一方、90年代前半の日本では、西麻布のYellowなど主要な箱が続々と誕生し東京にクラブが定着していく。当時はまだトランスという音楽がシーンに浸透していなかったが、YellowやCAVEで行われていたテクノ/トランスDJの先駆的存在であったDJ K.U.D.O.のレギュラーパーティーには、当時東京にいた外国人トラベラーたちがこぞって集まり、DJTSUYOSHIをはじめ、のちにトランスシーンで活躍するDJに多大な影響を残していった。
 ダンスミュージックが少しつづ地中に根を張っていくとともに、トランスの萌芽も徐々に膨らみはじめてきたこの時期に、日本のトランスパーティー史は幕を開けたと言われている。しかし、実際のところ何をきっかけにパーティーははじまり、誰が足跡のない場所で踊りはじめたのだろうか。そして、黎明期から約30年が経った今も僕らが踏み鳴らし続けているダンスフロアの裏にはどのような時間が積み重なっているのだろうか。それを知るべく、日本のトランスシーンにおける先駆的オーガナイズチーム“EQUINOX”のメンバーであり、90年代初頭からパーティーと関わってきたKOTARO氏に2020年の節目にインタビューをお願いした。インタビュー前半では今へ繋がる30年を、そしてインタビュー後半ではKOTARO氏自身が歩んできた51年を聞く。

※インタビュー内容は30年の歴史を網羅できているわけではありません。ある一面から見たパーティーのルーツと、国内シーンの出発地と思われる東京を中心に説明しています。なお、この取材は2020年1月11日に1回目を、5月23日にオンラインで2回目を、11月8日に3回目を実施しました。


——まずトランスシーンの歴史を振り返るにあたって、はじまりはいつ頃だったのかをお聞きしたいです。

いつからとは一概に言えないんだよね。91年頃にはCAVEやYellowといった場所でK.U.D.Oさんは回していたし、TSUYOSHI君もすでにDJをはじめていたけれど、まだその頃はトランスパーティーに繋がるようなものではなくクラブシーンの中にそういった要素があった時代。そのあと93年頃かな、ゴア帰りの日本人が主体となって活動をはじめたEQUINOXや、王子にあった3DというクラブでパーティーをしていたMASAやREE.K、MAYURIさんのOdyssey、他にもトラベラーやクラブ店長、それぞれがうまいタイミングで一斉に出会うんだよね。そのときの化学反応で勢いを増した頃がシーンのはじまりにはなると思う。そのあとパーティーがクラブだけではなく、キャンプ場などの野外でもはじめるようになると、もう少しシーンがハッキリとした形で現れるようになってきたね。


——93年以前はトランス要素を感じるパーティーはまったくなかったんですか?

Twilight Zoneには近い要素があった。新橋の高架下にあったクラブでやっていたパーティー。オーガナイザーがイギリス人とイスラエル人のカップルだったからお客さんの8割が外国人。彼らの多くがタイやインド経由で日本に来て、バブルの名残でまだ景気の良かったジャパンマネーを稼いだあとに出国していくヨーロッパのトラベラーだったから、ダンスフロアの雰囲気としてはゴアのパーティーに近しいものはあったよ。


——音楽の面でもゴアに近いものはありました?

音はまったくの別もの。彼らはロンドンで開催されていたアンダーグラウンド・レイヴの雰囲気を東京でやろうとはじめたから、かかっている音はテクノ、ハウス、ガラージュ、ロック。ディスコからクラブへ変わっていく流れにある何となくのオールジャンル。だから音楽的にどうかって言われると良くも悪くも雑多な感じはあった。でも、独特の雰囲気が好きだったから通っているうちに、いつの間にかパーティーのバティックを描く立場を任されるようになってしまって。


——当時はデコレーションもやっていたんですか?

パーティーを知るきっかけを作ってくれたトラベラーの友達がTwilight Zoneのバティックを描いていて、彼女がビザ切れで日本を出るときに「次からはKOTAROが描いてみない?」と誘われたんだよね。そこからスタッフとしても関わりはじめるわけだけど、Twilight Zoneは誰が何の担当と決められているわけじゃなくて、DJもバーに入って酒を売って、もちろん俺も絵を描くことだけじゃなくて酒も売って。平日は翌週のパーティーのDMを送ったり、フライヤーをレコード屋などの店舗に配布しに行ったり、全員が持ち寄りで回しながらパーティーを作っていたから楽しかったよ。そうやって手伝っていくうちに仲良くなったヨーロッパのトラベラー連中から「今シーズンはKOTAROもゴアに来い!」って半ば強引に誘われるがまま連れて行かれることになるんだけど、今振り返るとTwilight Zoneの繋がりがなければゴアに足を運ぶことはなかったし、今こんなこともしていないと思うんだよね。


——パーティーにしてもゴアにしても、トラベラーの繋がりがきっかけだったんですね。実際に行ってみたゴアはどうでした?

彼らから聞いていた通り、確かにすごい光景だった。こんな『マッドマックス2』みたいな世界があるんだっていう(笑)。そこで体験した衝撃がすごかったのか、帰国したあとにTwilight Zoneへ行ってみると何かしっくりこない。ゴアで聴いた音とは違う。ハッキリいってチャラい。じゃあ、あの音は何だったんだろう?というところから同じような音を探すレコード屋通いがはじまるんですよ。で、ちょうどそういった時期と並行した92年頃に、旅から帰って来た、のちにEQUINOXを立ち上げるメンバーのひとりになるYAPPOと出会い、その翌年の93年にEQUINOXは発足するわけだけど、俺自身は立ち上げメンバーではないんだよね。自分が正式に入って活動をはじめたのは97年頃だったと思う。それまでは割と近い距離で雑務を手伝っていたり、YAPPOと2人でEQUINOXとは別のパーティーをオーガナイズしていた。


——EQUINOXの話に入る前に、ゴアについてもう少し聞かせてください。そもそもこの土地はどういった経緯でパーティーが盛んにおこなわれるようになったのですか?

さかのぼると、ゴアやイビサ島は60年代に起きたサマー・オブ・ラブという世界的な社会現象の影響を受けてトラベラーを惹きつける場所に変わり、そこからヒッピーの聖地と呼ばれる文化背景が徐々に積み上げられてきた土地だと自分は理解していて。ゴアの話を聞いた若者が辿り着き、辿り着いた人がまたクチコミで伝えていく、そうやって時代をまたいで受け継がれていったものが、俺らよりもちょっと上の世代だとPink Floydのライブを開催したりね。ちなみに俺がゴアに通っていた90年代のパーティーで使われていたサウンドシステムは、Pink Floydがライブをやったときに置いていったものをそのまま使っていると聞いたことがある。


——え! 今もパーティーで使っているんですかね?

この話を聞いたのは93年頃だから今はさすがに使われていないと思うよ。


——なるほど。残念です……。とはいえ、70~80年代から現在のトランスパーティーに繋がる要素はあったんですね。その頃にかかっていた音はサイケデリック・ロックだったり?

そういった音楽から、80年代後半になるとディスコじゃないけれどボディミュージックと言われるダンスミュージックに変わっていく。Ray Castleが遊んでいたのもその頃かな。自分が行った92年頃は、ドイツ色が濃くてジャーマンテクノの影響が強く残っていたように思う。それこそSven Vathなんかもゴアでパーティーをしていた時代だね。


——92年というと、イギリスを中心にはじまったセカンド・サマー・オブ・ラブのあとですよね。あの現象が“レイヴ”のルーツになると思うのですが、ゴアにも影響はありましたか?

もちろんあったと思う。ちょうど俺の行った頃のゴアは、セカンド・サマー・オブ・ラブの影響を受けて途端に増えはじめたイギリスのエレクトロニック・ミュージックとドイツのテクノが何となくクロスオーヴァーしていた印象。集まっていた人もヒッピーやトラベラーだけではなくパンクスだったり、いろんな思想を持った種族が入り交じっていた。Dragonfly RecordsのレーベルオーナーをしているYOUTHも90年代初頭のゴアにいたけれど、彼は元々KILLING JOKEのベーシストだったりするしね。


——どうしてゴアはそういった他文化を持つ人間を許容する間口が広いんですかね。過去にポルトガルの植民地だったことも影響していると思います?

ポルトガルの植民地だったっていうのもあるし、フランシスコ・ザビエルのミイラが教会に奉られているようなキリスト教徒が多い場所だから、比較的ヨーロッパ文化に対して開いている。あと、インドはそもそもヒンドゥー教の戒律でお酒をおおっぴらに飲めない場所なんだけど、ゴアはお酒が普通に飲める場所っていうのも大きい。


——そうやって世界中からさまざまな文化背景を持つトラベラーたちがこぞってゴアに集まり、厳選された音を聴かせあってきたからこそゴアトランスという独特な音が生まれたんですかね。その辺を聞きたいのですが、今うかがった話をまとめると80年代後半~90年代初頭のゴアでかかっていたのはボディミュージックやジャーマンテクノ、そのあとセカンド・サマーオブ・ラブの勢いに乗ってやってきたのがアシッドハウス。それらがゴアというカオスティックな場所で煮込まれて形成されていったのが、初期のゴアトランスという解釈であってます?

そこにアラビア音階が混ざったのが、初期のゴアサウンドと言われるわかりやすい例。ただゴアトランスとひと言でくくっても、行った年や視点で解釈が変わるからわかりやすい答えはないんだよ。俺は基本的にゴアで流れていた音がゴアトランスだと思ってはいるけれど……。そう思うのは、ゴアという場所の特性として、その年に集まる人の趣向でパーティーの中心となる音が変わっていく印象があるから。さっき話したように俺が行った初期の時代はドイツの音やDragonfly、TIP、Blue Room、Frying Rhinoといったトランスに寄ったイギリスの音が入ってきていたけれど、そのあとは年を重ねるごとにイスラエルパワーが強くなって音の力関係が徐々に変わってくるんだよ。兵役を終えたり逃れるために来たイスラエル人が段々と集まりはじめて、そのあとにはVision QuestのオーガナイザーだったシモンとターニャがDJのMIKOを率いてゴアに2ヶ月滞在したり、そうするとゴアのパーティーもイスラエル人が好む音楽へと変わっていく。っていう時期もあるし、99年辺りになるとロシア勢が入ってくるの。そこで雰囲気がガラっと変わってしまい次の年から自分はもう行かなくなってしまった。だから2000年以降のことはまったくわからない。


——なるほど。ゴアトランスとひと言でいっても具体的にどういった音を指すのか明確な線引きはしにくいわけですね。そういえば、ロシア勢の話を聞いて思い出しましたけど、その99年以降からロシア出身アーティストのリリースが増えはじめた気がします。僕はゴアに行ったことはありませんが、もしかするとゴアで勢いに乗った音がトラベラー経由で世界に広まり、また内に戻るという循環を繰り返しながら毎年進化を続けていると考えたり……。あくまでも自分の想像ですが。

その予想はあながち外れてはいないかも。というのも、当時のゴアには世界各国から集まったDJたちが、DATというプレイヤーを使って現場で音源を交換する特性があったんだよね。それぞれが持ってきた自国アーティストの楽曲をその場で交換して、それをシーズンの後に国へ持ち帰ってDJで使う。そうやってゴアに持ち込まれた曲が世界中に広まっていく。そんな流れが毎年あったから、ゴアから外へ、外から内へと循環はしていたのかもしれない。

1996年 YOUTH(Dragonfly Records)@GOA​

——だいぶ話が脱線してしまいましたが、国内トランスシーンの話に戻してEQUINOXについて教えてください。93年に発足しどのようなパーティーをおこなっていたのでしょうか?

1回目は西麻布のGEOIDという箱で開催して、94年から野外でもはじめて。その頃は事前にパーティー情報を告知せずに代々木公園の入口辺りや、六本木の飯倉交差点で参加希望者に地図付きのフライヤーを渡して、それだけを頼りに目的地まで来てもらったりしていた。地図と言っても結構ざっくりと書いてあるから辿り着けない人もいたりね……。近くまで来たら音を頼りにして会場を探してもらうような場所でさ。お客さんの割合は外国人と日本人で半々くらいだったかな。


——どのようなDJが出演していましたか?

最初の頃はKUNI君のロングセットか、そこに海外から呼んだRay castleやSpace Tribeが加わって。野外に場所を移した後は、Total Eclipseに、X-DREAM、KOXBOXといったBlue Room所属のライブアーティストやDJだとDino Psaras、Joti Sidhutとか初来日のアーティストが多かったな。こういった誰も日本に呼んだことのないアーティストをなぜEQUINOXが呼べたかというと、JUNO REACTORが来日したときに同行していたマネージャーのIanというイギリス人がEQUINOXをすごく気に入ってくれて、彼がロンドンコネクションを駆使して送り込んでくれたんだよね。他にもIanからの流れでJUNO REACTORのメンバーDJであるXAVIER、MIKE MAGUIR、DOMINOらとの繋がりも強靭なものになっていき、EQUINOXで回してもらう機会が増えていった。それに今話したDJたちもそうだし初期のBlue Roomからリリースしているアーティストは、JUNOを筆頭に往々にすごくオリジナリティを持っていたんだよ。


——そういったオリジナリティを持ったDJを呼んで、年に1度の開催ですか?

年に1度ではなかったよ。ただ当時からちゃんと何かがさだまっているポイントを作ってパーティーをしていたね。そのコンセプトがなければ単なる馬鹿騒ぎになってしまうから“パーティーって何なのか?”というところは特に意識していた。だから、初めて野外を開催した94年はフルムーンの日を選んだり、他の年は名前の通りEQUINOX(春分/秋分)でやったり、夏至でやったり。で、96年までは一晩で終わっていたけれど、どうせやるならということで97年からは2泊3日のパーティーをはじめることになる。当時キャンプインのトランスパーティーは大抵1nightだったから、あれが恐らく日本では初めてじゃないかな。


——話が少しズレますが、EQUINOXが初めて野外をおこなった94年はTSUYOSHIさんがロンドンでMATSURI PRODUCTIONを立ち上げた年でもありますよね。当時から交流はあったんですか?

初めてTSUYOSHI君を見かけたのは西麻布YellowでのK.U.D.O.さんのパーティーで、現れた彼の足元を見たら地下足袋姿だったんだよね。その風貌にインパクトがあってさ、今でも忘れない。TSUYOSHI君とはなんか縁があって、俺が初めてゴアに向かう92年のフライトが一緒なんだよ。そのとき彼は「このまま日本には帰りません。向こうで活動します」という覚悟を決めてゴアへ向かい、最終的にはロンドンで活動する岐路のタイミングだったの。そうしてロンドンですぐにMATSURI PRODUCTIONを設立し成功していった。ちなみに地下足袋のことで付け加えると、当時イスラエル人たちがよく履いていた印象がある。裸足に近い感覚や、長時間踊っていても疲れないという理由で次第に彼らのなかで流行っていったんだよね。僕が初めて訪れたGOAのフリーマーケットでも地下足袋が売られていて驚いたのを覚えているよ。


1999年 EQUINOX@五光牧場のフライヤー。見開きで6面12ページ使用


——96年頃になると徐々にパーティーの数や種類も増えはじめます。Space GatheringやVision Quest、そして日本における巨大レイヴの原点と言われるRainbow2000など。この頃の盛り上がりによって、パーティーが知る人ぞ知るアンダーグラウンドなものからもっと幅広い層に拡まっていく実感はありました?

あるねー。Rainbow2000の出現で間口が一般的な層に広がったと思う。18000人集まったと言われているから。そのあとNHKが特集番組を組んで放送したりね。でも、そういった盛り上がりが一時期で終わらずに、シーンに根付く形でひと回り大きくなれたのは、俺らよりも世代が少し上になるRainbow2000の主催をしていた先輩たちの存在が大きかった。彼らはレゲエ・ジャパンスプラッシュといったイベントを手がけるプロダクションにいてノウハウを知っていたし、往々にデッドヘッズだったから、パーティー気質なところがあってことあるごとに手助けをしてくれたんだよ。もしかするとそういう人たちとの接点がなければ、パーティーシーンはアンダーグラウンドなままだったかもしれない。


——そういったシーンの底上げによってEQUINOXに来る人も増えました?

確かに人は増えた。そうなると一晩じゃ少し物足りないし、2泊3日くらいで余裕を持ちながら楽しめるパーティーにしたいと思って開催したのが97年。でも実際2泊3日となると、コンテンツを自分たちだけでは埋めきれない問題が出てくる。そこで、セカンドフロアの空間演出はanoyoに手伝ってもらった。anoyoはEQUINOXが最後に野外をやった99年の五光牧場でも1フロアを担当してくれたり、関係性としては近いところで空間作りをしていた人たち。彼らとはオーガナイザー同士、相互扶助的に手伝い合っていたね。
 
1999年 EQUINOX@五光牧場

——オーガナイズチーム同士が良い影響を与えながらサポートし合える関係って理想的だと思います。他にもそういうオーガナイザーっていました?

VITAMIN-Qとも関係性は近かったよ。彼らとは六本木の雑居ビルで96年頃にパーティーを一緒にやっていて、今週はEQUINOX主導だったから来週はVITAMIN-Qみたいな月に2回づつ共同開催していた。VITAMIN-Qのメンバーとも昔から不思議な縁があってさ、当時メルボルンで開催されたRainbow SerpentでDJした帰りがけに、オーガナイザーのユキちゃんが住んでいるバイロンベイの自宅に滞在させてもらったんだよ。そうしたら「せっかくKOTARO君がいるなら!」と急遽彼女の友人宅の庭を使ってパーティーをやろうという流れになって、そこで彼女は「やっぱりパーティーはいいな!」ってオーガナイザー魂が再燃するんだよ。彼女はオーストラリアに移住してからパーティーと距離をおいていたんだけど、このことがきっかけで2009年にVITAMIN-Q Byron Bayという名前で再度パーティーをはじめるんだよね。
ユキちゃんのほうでも俺と同じ様に何か繋がりとして強いものを思ってくれているみたいで、2009年に日本ではトカラ列島周辺で皆既日食があったじゃない? 俺は奄美大島のパーティーでフォトグラファーとDJのブッキングを受けていたからそっちへ行ったけれど、彼女たちはロシアからルーシー号という船を借りて船上日食パーティーをオーガナイズしていて。そのときにユキちゃんは「船底に“GIOID部屋”(通称)というKOTARO君がDJ出来るスペースを用意しているからこっちに来てくれ!」と言ってくれてさ。そのくらい気にかけてくれていた。ちなみに今日インタビューを受けているこの場所(万酒珍店)だってVITAMIN-Qによって生まれた、MANGOSTEENというカフェから派生してできたお店だしね。


——繋がりという話になると、SolsticeもEQUINOXに影響を受けて98年頃にパーティーをはじめたという話を聞いたことがあります。

Solsticeのチカは元々EQUINOXで遊んでいたり、学生時代からYAPPOとの繋がりもあったから、そうした縁もあってEQUINOX(春分/秋分)と対照的なsolstice(夏至/冬至)という名前を付けたんだと思うよ。彼らはもともとカナダで活動をはじめて、そのあと東京でパーティーをスタートする際に僕らでサポートをいろいろとした。彼らのロゴをデザインしたのもEQUINOXのKCだしね。でも俺はオーガナイザー同士の繋がりっていうよりも、個人個人で繋がっている感覚が強いかな。チカがSolsticeを立ち上げる以前から、僕と彼の2人体制で一晩をDJするパーティーを何度かGEOIDでやっていたし。他にVision Questなんかとも、タイのパンガン島にたまたま同時期に滞在していたタイミングで一緒に無人島でパーティーをやってみたり。彼らとも個人のつながりからはじまって、その流れでパーティーの様子を中盤以降からずっと写真に収めてきた。
 
2001年 Solstice@本栖ハイランド
 
2001年 Solstice@本栖ハイランドのフライヤー


——Solsticeがはじまったあとの2000年前後、新しいオーガナイザーが次々に現れてさらにひと回り幅が出てきたと聞きます。Labyrinth、Stargate、Arcadia、Trance Café、少し前には地球家などなど。その中でも特に印象が残っているパーティーってあります?

StargateはSon Kiteとかスウェーデン寄りの初来日アーティストを呼んだり、ならではの色がパーティーに反映されていて面白かったよ。Stargateの場合はオーガナイザーの1人がスウェーデン人だったからそういう人選になったんだろうし、同じ様に他のオーガナイザーも自分たちの持っているコネクションでパーティーを組んでいたから、各自のカラーが割とハッキリ反映されていた。あと、繋がりの話に戻るけれど今名前が挙がったLabyrinthは、EQUINOXのパーティーでデコレーション的にティピを設営してくれていた天幕のリキさんがずっと彼らのステージ設営を請け負ってるし、運営チームの1人がWAKYO出身でもあるから、そういうことで言えばEQUINOXと繋がりが深かった人たちとの接点がある。そう考えると各オーガナイザーの色に違いはあったけれど、当時からみんな自分の所属がどうとか関係なく、各々出来る能力を出し合い協力し合ってパーティーを構成していたね。その経緯が今もずっと続いているように思う。
2002年 Stargate “宴”@野反湖キャンプ場のフライヤー


——今も変わらないそういった部分の一方で、その頃になると以前とは変わりはじめてきたところもありましたか? 

末広がりというか、集客の桁が変わってきた。今までは情報を見つけた人しか辿り着けなかったのが、インターネットや携帯電話が普及して。その影響は日本だけじゃなくてゴアでもそうだったと思う。朝ご飯を食べに行った場所でその夜のパーティー情報を口伝えで交換していたのが、今みたいに誰でもネットで見つけられるように変わってきた。


——僕はちょうどその波に乗っかってトランスパーティーを知った世代なので、当時の“春風”や“渚”をはじめとする1万人規模の光景を前からそうだったように見ていました。今思うと代々木公園や葛西臨海公園にあれだけの人が集まっていたのってすごいことですよね。

そういった全盛期の中心にいたのは、やっぱりSolsticeとVision Questだったんだと思う。その2組が幕張メッセで合同開催した2002年のカウントダウンパーティー。あれは手を組んだのが懸命で。お互い別々に開催してもお客さんが割れちゃうから、だったら一緒にやろうっていうパターンのすごい成功例。

2001-2002 Solstice&Vision Quest COUNTDOWN@幕張メッセのフライヤー。1万人以上を動員したと言われている
 
2000年 春風@代々木公園

——2000年を過ぎるとフリーパーティーを含めさらに小中規模のパーティーが生まれて多様化が進みました。DIGITALBLOCKやPrimitiveであったり、従来のトランスとは少し離れたところから素晴らしいパーティーが生まれる一方で、メインストリームの方では流行によって荒れてきた部分が目立つようになり、2000年を境に来る人がガッツリ入れ替わったと聞きます。

いろんなメディアに紹介されて全然違う層のお客さんが来るようになったね。ただ、新しい人が興味を持ってパーティーにくる、それ自体は良いと思うんだよ。さまざまなジャンルの別業種の人が何かをきっかけにパーティーを知って、その人たちの視点で新しいことをはじめるっていうのも。でも、自由を履き違えてゴミを散らかしたり、パーティー本来の姿から外れて好き勝手やるのは違うんじゃないのって。


——そうなるとパーティーではなく興行だと思います。

ひどくなるとテントをそのまま捨てていく人もいたしね。2泊3日の長いパーティーだと大体雨が降るでしょ。雨でぐちゃぐちゃになったテント用品とかそのままの状態で一式置いていく。


——あれはスタッフの人たちが片付けていたんですか?

そうだよ。もうそうするしかなかった。するとゴミの処理代だけで結構な金額になるから、当然エントランス代も高くなっていく悪循環。でも、確かに客層は荒れていたけれど、そのあとシーンが小さくなっていったのは天候による影響の方が大きい。悪天候に見舞われて、続けられなくなった野外パーティーが多かったんじゃないかな。


——そうした様々な理由によって小さくなってしまったシーンを、再度コツコツと関東近郊を中心に作り直していったのがGrasshopper Recordsを手掛けるHATTAさんをはじめとする人たちだと思っているのですが、彼らとの関わりは昔からありました?

HATTA君とはじめて会ったのは2002年くらいだったかな。彼から「今度出すトランスのコンピレーションCDにEQUINOXの写真を使わせてください」という連絡がきて会ったのが最初。そこから関係がはじまって彼のパーティーに呼ばれたこともあるけれど、そこで手伝っていた人たちがすごくパーティーに対して献身的に動いていたんだよね。それを見て、周りからの信頼がすごく厚い人なんだなって思った。


——TSUYOSHIさん以降、海外の大きなトランスパーティーに常連で出演する日本人アーティストはいなかったと思うんですよ。その道を新たに作り、また、遊ぶ人たちにとっても海外のパーティーに行きやすい環境を整えていったのも、彼らの活動によるところが大きいと感じます。現在HATTAさんの他にも海外も視野にいれて継続的に活動している人って誰かいますかね。

トランスシーンに限って言えば他はあまり見ないよね。そもそも日本は地理的にヨーロッパと離れているから、向こうで活躍し続けることはなかなか難しいんだと思う。そんな中でも、YUTAは海外も視野にいれてずっと頑張っている印象はあるよね。


——そういった、シーンが良い意味で入れ替わっていく時期を経て行われた2009年の奄美皆既日食祭。あのパーティーはこれまで繫いできたシーンの集大成になったのでは、と勝手に想像していますが実際のところどうでした?

パーティー的に集大成なのかと言われると俺にはわからないかな。ただ、次に日本で見られるのは2035年でしょ? 本当に一生に一回味わえるかわからない滅多にない天体観測を目的に、みんなが同じ場所で同じ方向に集中していくから一体感は出たよね。で、その2035年の日食に関して言うとすでに小張君が動きはじめているみたいだよ。


——今から準備をはじめているんですか。そこまでさせる日食の魅力って何だと思います? 日食を見た人に話を聞くと、全員が口を揃えてもう一度あの空間を体験したいと言います。実際に海外の果てまで追いかける人もいますし。

太陽、月、地球、自分っていうのが一直線に並んだときに、普段の空気感からまったく違うものへと変わるんだよ。風の吹き方も変わるし、普段過ごしている日常とは全然違う世界になる。


——ちなみにKOTAROさんはこれまで何回見たことがありますか?

今まで5回。初めては1999年のハンガリー、2回目は2006年のトルコ、3回目は2009年の奄美大島、4回目は2012年のオーストラリア、で、2016年のオレゴン。


——初めて見たときはどのような場所で?

今も毎年ハンガリーで開催されているOZORA Festivalの1発目が、Solipse Festivalという皆既日食パーティーだったんだよね。そこで初めて見たわけだけど、どういう流れでハンガリーまで行くことになったかと言うと、当時あった「zavtone」という雑誌がSolipseの日本プロモーションを担当していたということで、OZORAのオーガナイザーから編集部宛に2名分のエアチケットを含めたインビテーションが届いたの。でも編集部の人たちは雑誌の入稿に忙しくて行けない。すると「編集部から誰も行けないから、良かったらKOATRO行く?」って日食まで一週間を切っている直前で誘われる。「パーティーはもうはじまっているけれど日食にはまだ間に合うでしょ?」って。その雑誌には、自分の写真が何度か掲載されていた関係もあって声をかけてもらい、そのうちの1枚をもらえることになったの。残った1枚はM.M Delightの森田さん。俺と森田さんで行って、会場に着いて寝て起きたら和光大学教授の上野さんはじめ、結構な人数の日本人トラベラーが集結していて。彼らと一緒に日食を見たのが1回目。


——日食の前日に着いたってことですか?

そう。行く道中でもいろいろあって、会場がブダペストの駅からバスで4~5時間のところにあるんだけど、駅に着いたら会場まで行く足のない数百人が道端にたまっちゃってるの。ここからどうやって行けばいいのかわからない路頭に迷っている人たち。その中にVision Questのターニャもいて。そうしたらターニャがイスラエルの若い衆を捕まえて「あんたら街中出ていってバスを手配してきなさい」って言うんだよ。


——女親分ですね(笑)

わかりました!ってイスラエルの若者たちが早速バスを探しにいって、そのあとに数台現れるわけ。それに乗って会場まで。ターニャが速攻でバスを準備してくれたおかげでたどり着けたっていう。もし彼女が偶然同じタイミングでそこにいなかったら、スムースに会場にたどり着けていなかったね。

1999年 Solipse Festival@Hungary


——次の日食はどこで見るか、何となくでも決まっています?

機会があれば。日食に関しては毎回そうなんだけど「よし行くぞ!」と焦点を定めて行ったことは1度もないんだよ。2006年のトルコ日食のときもそうで、アムステルダムでDJのブッキングが入っていたから行く予定はなかったのに、当時ライターとして関わっていた媒体から「経費を出すから取材して来てください」と言われて。旅費を出してもらえるならと言うことで仕事を受けて、前回のハンガリーと同じように日食直前でトルコに入ったんだよ。このときも到着したのは真夜中だったけれど、まぁ前と同じようになんとかなるだろうと空港のバス停周りをウロウロしていたら、今度はHilight Tribeに会うの。話かけたらアーティストバスを待っているって言うからそのまま便乗させてもらい、会場まで連れていってもらえることになった。で、着いたら着いたで真っ暗で、誰がどこにテントを張っているのかわからない。しかも、道が大雨でぬかるんでいるし、この状況は朝になるまで動かないほうが良いなと思って。そこで周りを見てみると、デコの中にちょうどいい大きさのダンボールが置いてある。その日はそれをデコの中に敷いて寝た(笑)。


——KOTAROさんがダンボールで寝ている姿はレアですね(笑)

そのあと朝になったら友達と合流して日食を見て。で、帰りのことも何とかなるだろうと予定を組まずそのままにしていたら、今度は奄美大島でおこなう皆既日食祭のフライヤーを配りに来ていたブランニューメイドの石原さんと豊島君が、急ぎで空港に戻るための運転手を探していることを知って。で、声をかけたら、ぜひお願いしたい、お互いに助かるということになり、そのまま復路もお金を使うことなく戻ってこれたの。さらに、彼らが運転してくれたお礼ということで、その先のホテル代を全部払ってくれたんだよ。だからそのときのトルコ日食は一銭も使っていない(笑)。


——成り行き任せというか、すごい巡り合わせですね、ちなみに奄美日食のときはどういう流れで?

奄美日食のときは、Ray Castleから奄美日食のドキュメンタリービデオを作るクルーとして参加して欲しいと声をかけられて。結局日食を見に行くときって仕事というか、使命として与えられてる感がある。
 
2017年 Oregon Eclipse Festival@USA


——話が国内のことに戻りますが、2011年に起きた震災からパーティーシーンに何か変化は感じましたか?

あんまり変わってはいないかな。震災直後はパーティーを開催することに自粛を促す雰囲気があったり、自分も含めてチャリティーCDを出したりとか、シーンの中でそういう動きがあったのは確かなんだけど、じゃあパーティー自体が震災前と比べて何か変わったのかというとあまり感じないかな。その時期パーティーにがっつり関わっていた人間ではないのでなんとも言えないけれど。


——僕の回りであった変化としては、震災以降、海外や地方へ移住する人が前より増えたじゃないですか。引っ越した理由はさまざまですが、生活の場所を変えた彼らが、今住んでいる場所と以前住んでいた場所にあるコミュニティをハブする場面をパーティー周りでよく見るようになった気がします。

それは確かに震災後の変化かもしれない。そういった場所を越えた繋がりが、あっちとこっちの良い部分を結びつけて、もっと良いものが生まれるきっかけを作っているかもね。そういうことで言えば、EQUINOXの話に戻っちゃうけれど、97年の野外は岐阜で開催したの。言ったら岐阜は日本の中心地にあるわけじゃない? 東京近辺からは6時間近くかかるけれど大阪近辺からは3時間で来れる。そういった日本の真ん中で3日間のパーティーを開催したことによって比較的全国からお客さんが集まったんだよ。そこで各地のコアな人が出会うきっかけは作れたんじゃないかと思っていて。その時代にパーティーを経験している人は日本全国に点在しているはずだから、彼らを揺さぶってまた現場に出てくるようになれば、世代を超えた新しい繋がりが生まれてまた面白いかもね。


——今のトランスパーティー周りで、年代や場所関係なく人が交わっていそうなオーガナイザーはどこなのか、パッと思い浮かんだのはLiquid Drop GrooveとSunflower of todayです。他にもRe:birthのように、ジャンルにとらわれず細分化されたものをクロスオーヴァーさせるパーティーにはさまざまな人が集まるだろうし、いろんなきっかけが生まれそうですね。

そういったパーティーの一方で、トランスシーンを盛り上げようとしているDANCE ON THE PLANETにも頑張って欲しいな。


——Sunshine FestivalやGreen Magicもそうですね。

Green Magicは2018年の野外にフォトグラファーとして参加したんだけど、良かったね。楽しんでいる人たちの姿を見て、当時の古き良きものを失っていなかった感があった。でも、俺なんかは海外から取り入れた要素をパーティーの中心にするのではなく、もう少し日本独自のコンテンツや日本古来のパーティースピリッツと融合したパーティーがあってもいいと思うんだよ。例えば、デコレーションに“ねぶた”の要素を入れるとか、あの造形ってすごいものがあるしさ。他に音楽で言えば極端な話、EQUINOXでもやったようにオープニングでGocooの和太鼓入れてみたり。ものすごいベタな例だけどそういうコンテンツは海外のお客さんにも響くと思う。それにそもそも日本は世界から見て2000年頃と比べるとトランスマーケットがひと回り小さくなってしまっている気がするから、年末のカウントダウンとか多忙な時期は海外の大御所ヘッドライナーをなかなか呼べなくなっている。だったらいなきゃいないで日本人のコンテンツで全然いいじゃんって思うの。


——そういうパーティーで言うと、音の毛色は少し違いますがZIPNAGは出演者を日本人アーティストで揃えていたり、そのまま海を飛び越えてベトナムでも、日本人をはじめとする多国籍クルーでパーティーを開催する動きをオーガナイザーが見せています。
こういったさまざまなカラーを持ったパーティーが今も第一線にあるわけですが、今年はコロナウイルスの影響によって、前半は開催を断念せざるえない状況が続きました。クラブに関しては、以前と同じような営業をいつからはじめられるのか見通しはつきません。しかし、ネガティブな部分ではなく、敢えて希望に目を向けるとすれば、あの期間はどのようなものになったでしょうか。


あの時期は簡単に人と会えなくなったよね。そういった状況が、逆にオンライン上で繋がる機会を広げたというか。例えば、長いあいだ会えていない友だちからオンラインで突然連絡がきて、電池が切れるまで話したり、facobookに昔のパーティーのフライヤーを投稿して、不特定多数の人とやりとりしたり、ロックダウン中のフランスに住んでいる友だちとグループチャット内で連絡を取り合ったりね。ちょこちょこ色んなところで、普段生活していたときとは違うコミュニケーションの場が生まれていた。そこで繋がったことが、今後収束した後に何らかの新しい形を作っていくと思うんだよ。


——収束した後には、以前と同じような状態に戻れると思いますか?

簡単にこうとは言えないところだよね。コロナはその人の立場や環境によって感じ方が全然変わってくるから。ただ、世の中が変わっていけば、合わせていくしかない部分はでてくると思う。音楽メディアを例にあげて言えば、30年前にレコードがCDに変わって、そのあとCDからデータになって、それが今や月額で聞き放題みたいな時代になったわけでしょ。そうなると、レコードが売れなくなっていくのは時代の流れでしょうがない。でも、その一方で逆に息を吹き返していくレコード屋があったりもする。つまりさ、その時代の生き方に合わせていくしかない部分が出てくるんだよ。とはいえ、そういった移り変わりが激しい中でこれまでやりくりしてきたわけじゃない。レコード屋がなくなってデジタルに移行していったときと同じように、今大変かもしれないけれど、時代に合った生き方を段々と見つけていくと思うんだよね。
 
2009年 奄美皆既日食音楽祭@奄美大島


——前回5月におこなったインタビューから約半年が経ちました。その間に、本当に色んなことがあったと思います。もとをたどれば2月にコロナが広まり、4月に緊急事態宣言、自粛要請が発令されて、そのあと規制が緩んでいきましたが、ここまで人と自由に会えない生活が続いたのは今までになかったことだと思います。そういった時間を過ごしたあとで、KOTAROさんが久々にパーティーという開かれた場所に足を踏み入れたときに何を感じたか、それを教えてください。

自粛が明けて最初に行ったのはFUJI DANCE CARNIVALという富士山の麓でおこなわれていた野外パーティー。そこで1ヶ月間レジデントとして毎週末DJをしていたわけだけど、あの時期は今以上に何が正解でどこまでやっていいのかまったくわからなかった。手探り状態だったから、会場側は事前に保健所や行政にこういうことをやりたいという話を通したり、出来る限りのことをした上で開催をしていて。そのパーティーで改めて思ったのは、ダンスミュージックはダンスフロアで聴かないと、踊らないとダメだなっていうのを痛感した。耳だけで聴くのではなく、やっぱりスピーカーから出てくる音を体で感じてなんぼだし、それを他の人たちと共有してなんぼだし。


——僕もFUJI DANCE CARNIVALがコロナ以降はじめて行ったパーティーでした。あのときにダンスフロアで感じたことは今後忘れないと思います。

やっぱりああいう集まれる場所は必要。でも、そこでクラスターが発生しなかったのは結果論でしかなくて。今回なかったから大丈夫じゃんっていう話ではないし、逆に発生したらダメじゃんっていうことでもないと思うんだよ。実際にあのときやってみて思ったのは、おのおのに気をつけることは出来るわけだからそこはもう自分でするしか、自己判断でしていくのがいいんじゃないかと。それはパーティーという場に限らず、どこかに買い物に行く、食事をする、人と会う、学校に行く、会社に行く行かないも含めて。生活の中でここまでは良くてここからはまずいんじゃないかという判断を、自分で考えて臨機応変にやっていくのが。




——では、最後にトランスシーンの人たちへアドバイス的なことがあればお願いします。

俺は10年近くパーティーシーンの一線から退いているし、おこがましくて発言する権利はないんじゃないかと思っていて。ただいろんなオーガナイザーに相談されたときに言うのは、パーティーを作る際のチームに女性を入れたほうが絶対にいいよってこと。コアなスタッフメンバーに女性をいれたほうがいい。


——それはなぜでしょうか?

やっぱり女性はパーティーを作る際の細かい部分にまで気配りが出来る人が多い。会場を作るときには、そういったホスピタリティーの面がとても大切で。例えば、キッズルームのことひとつとっても、彼女たちの目線でそういうインフラが整備されていれば子連れでも安心して来やすくなるし、そうなれば遊びに来る世代の幅もまた広がるだろうし。ただ、単にステレオタイプにキッズルームを置くのではなく、ちゃんと当事者の意見が反映された形でないとね。客観的に見ていると、女性の意見が強いパーティーって良い雰囲気になることが多いんだよ。


——例えばどのようなパーティーがありましたか?

僕が初めてパーティーのオーガナイズに関わったTwilight Zoneも中心にいたのは男女のカップルだった。Vision Questも1番影響力を持っていたのはターニャだったし、EQUINOXもオーガナイズの前面に立っていたのは全員男性だったけれど、彼らのパートナーたちの意見が反映されて出来上がっていた部分が多かったし、Metamorphose のMAYURIさん然り、宇宙集会のReeちゃん、LilthのMIO、蟲の響のMINAちゃんだったり女性主導のパーティーって例を挙げたらキリがない。どちらにせよ性別に関わらずオーガナイザーのライフスタイルがパーティーには反映されていくんだろうな。良くも悪くもなんだけど。例えば、子供がいるオーガナイザーが作るパーティーって、おのずと自分たち家族を連れていけるパーティー作りになるだろうし、来るお客さんもそういう層になってくる。結局、パーティーの核になっている部分は音だけじゃないんだよ。何なんだろうね、パーティーの善し悪しが左右されるのは。きっと日常に繋がるところにあるんだと思うよ。


※後編は近日中に発表予定