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REE.K 活動30周年企画インタビュー|革命というものは自分の内側で起こるもの、ただそれだけだったと。

Interview & Text :  Norihiko Kawai
 
 誰にでも人生を進む上で、きっかけとなる人物や自分の意識を変えてしまうような仲間との出会いは平等に存在すると思う。そのタイミングを逃すかどうかは本人次第だと僕は思っている。僕がRee.Kに出会ったのは紛れもなくパーティの現場だった。現場で顔を合わせていくうちに、その優しさと包容力、時として一つ筋の通ったメッセージを発信していて、頼り甲斐のある姉のように感じたこともあった。僕とRee.Kの関係性はそれなりに深い。今はなきPOSIVISIONというパーティ系のフリーペーパーの編集部の先輩後輩(そんな縦社会ではなかったけれども)、MASAとRee.Kが主宰していた「SpaceGathering」というパーティでのスタッフ活動、Hypnodiskというレーベルの所属DJという間柄でもある。パーティの基本はこれらの経験から全て学ばせてもらったようなものだ。

 あるプロのカメラマンが、当時は駆け出しだった時に言った「Ree.Kさんは同じ目線で話してくれてすごく楽な気分にしてくれる人」と。そんな人間的な魅力のみならず、DJブースに立ったときのRee.Kは凄まじく、既成のクラブシーンの概念や形式を更新し、革新的な表現の音色とグルーヴでフロアを呑み込んでいく。そう、何度なく助けられた“りーさん”に聞きたいことは山ほどあった。

――30周年おめでとうございます。率直にこの30周年という節目をどのように捉え、この30年という時間をどのように感じていますか。

ありがとうございます!30年あっという間に濃密な時間が過ぎたような感覚です。10年前の20周年のときは代官山Unitでのワンマンセットでしたが、そこから10年も経っていることに自分でも驚いています。とにかく夢中でやっていたらいつの間にか仲間がものすごく増えていて、ちょうど30代のDJさん達とも一緒プレイすることも増え、改めて考えてみると、30年ってやっぱり長いんだと、そういうことで実感しています。

―― 30周年の今年、活動はどのようになっていますか。

今年はコロナ前のペースに、ほぼ戻ってきた感じで良かったです。自宅がある宮崎で5月にパーティをやったのと、今度の9月2、3、4日に開催される「REE.K 30th Anniversary」 at ヴィレッジ白州でのロングセットがあって、自分が運営に絡んでいるのはその2本だけですが、9月の京都Gaia、11月に大阪での30周年プレイが控えています。今年はいろんな現場でお祝いしてくださってありがたいです。逆に恐縮してしまいます(笑)。


自ら書き下ろした「REE.K 30th Anniversary at ヴィレッジ白州」のフライヤー画像

――DJをスタートしたきっかけはなんだったんでしょうか。 最初からRee.Kというアーティスト名で活動していたのですか? 過去のフライヤーでは表記がRee-Kとなっているのも見受けられますね。

もともと音楽が大好きで、特にインディーズやアンダーグラウンドの音が好きで、中学校を卒業する時点で、将来は音楽やアートで生きていこうと考えていました。高校を中退して続けていたバンド活動が行き詰まり、デザインやイラストの仕事で収入を得て、シーケンサーやシンセを導入しソロで楽曲制作するようになりました。当時はちょうどバブル経済が弾ける寸前の時代で、TB-303などの機材を一気に揃えることができました。1990年には四つ打ちのテクノの楽曲を制作していて、Ree.Kという名称はその頃からのものです。

そのうちシングルをリリースしたり、仲間とユニットを組んだりクラブイベントを企画しだして、ライブも何度かやったりしていました。DJプレイにも興味があって、やるなら私はちょっと他のDJとは違うことをやりたいと思っていました。普段テクノのパーティではかかることがなかったボディビートやインダストリアル系の音だったり、トランスやパンクのエッセンスをテクノのセットにうまく取り入れたくて、ターンテーブルとミキサーを揃えて家で少しづつ練習していました。

それから友達同士で企画した下北沢のパーティで初めてDJをする機会があって、HarthouseやSuperstitionレーベルのレコードだったりOrbital、Flukeなんかをプレイしました。初回から上手にやれてかなり手応えを感じました。その後に知人の紹介で、今は亡き渋谷の小箱で毎週日曜の朝から自由にやっていいよ!ということになり、通ってプレイしている内にどんどんDJの奥深さを知り、ハマっていきました。

Ree.Kというのは、子供の頃からの呼び名がずっと「りーちゃん」だったんで、当初だいぶ安易につけた名称でした(笑)。そのあとすぐに後悔したり、何度か変更しようかと迷ったりしたんですけど、結局30年そのままです。昔は確かにRee-Kの表記がたびたびありましたよね。今ではもうないと思いますが、こちらからRee.Kと送っても、なぜか雑誌の編集部やオーガナイザー側のほうで、わざわざRee-Kと直されてしまうこともありました。何でですかね?

――そうだったんですね。キャリア的にその後の活動に影響が出たのは、当時ロンドンに在住していたDJ TSUYOSHIさん主宰・UK発レーベル・オーガナイザーである”Matsuri Productions”のDJに抜擢されたことや、日本の野外パーティーシーンの先駆け的な存在である「EQUINOX」での活動も大きかったですよね? それぞれどのような経緯だったのですか。

「EQUINOX
」には2回目のパーティからずっといました。最初はKuni君がDJで、私はVJで参加していました。その後96、97年あたりからDJで参加していましたね。Matsuriには、ツヨシ君がイギリスから帰国し、日本でMatsuri Productionsを始めて、しばらくした時にMatsuriのDJにならないかと声をかけてもらったからです。それぞれカラーやコンセプトは違っていたけど、どちらも時代の波に乗って数千人規模へと膨らんでいく中でとてもいい経験をさせていただきました。


1996年「
EQUINOX」にてDATを使ってプレイ

――また、バンドメンバーとしてKINOCOSMOに所属、さまざまな広告へもモデルとして活躍されていましたが、DJ活動から派生したものと考えていましたか。

そうですねー。Kinocosmoに関しては、Masaさんと野毛乱さんと何かやろうか?というところから始まって、のちに5人編成になって、凄いことになりましたね。テレビ番組の主題歌にもなりました。2000年前後はトランスシーンが一気に花開いた時代だったこともあり、雑誌の広告など、本当にあちこちから引っ張りだこみたいな感じでした。

 
――DJとして徐々に頭角を現し、東京を代表するテクノの聖地で、当時世界的にも知られていた青山の伝説箱Maniac Loveのアフターアワーズのレジデントとして活躍していた訳ですが、当時のManiacとの関係性を教えてもらえますか。当時はそこに集う人々の熱量はいかがでしたか。

Maniac Loveはプレオープンの時代から、たびたびお世話になっていました。アフターアワーズの時間帯を担当するようになったのは確かQ’Heyさんがきっかけだったかなぁ?  私を入れたらどうかという提案をしてくれて、毎月一回、日曜の朝から始めて3時間くらいセットですかね。だいぶいい経験になりましたね。日曜の朝ということで、その前の土曜の夜にやっていたパーティごとに、いつも雰囲気が全く違っていたので、毎回工夫しながらそれまで居た人たちの足をどれだけ留められるか?、いつもやりがいを感じていました。

特にゲイパーティのアフターはいつも楽しかった。そこにいた人たちは、すでに一通り盛り上がった後なので、間髪入れずにさらにアゲていく形で繋いでいくと、どんどんオーディエンスが一つになって、ものすごいエネルギーの大爆発が起こる。すごくポジティブなパワーだし、熱い。突き抜けていて気持ちよかったです。それとは逆に、あるときはディープでコアな音だけでまとめたり、あるときはテクノのパーティの後にあえてロックな音を聴かせたり、毎回さまざまな実験をさせていただいてました。 

――当時からのチャレンジ精神は今も衰えていませんね。ちなみに実際、本人が意識していなくても、オーガナイザーや箱側は、ジャンル分けでDJをセレクトするのは至極当然のことと思いますし、箱によってはトランスシーンを敬遠していた風潮があったのも事実ですが、テクノ=Maniac Loveでプレイし、クロージングパーティにも抜擢されるなど経験していた身からしたら、この部分はどのように感じ、消化していきましたか。

確かにトランスを敬遠しようとする動きはありましたね。私は根がパンクなので、逆にそういう見えない壁をシレッと壊していく役割ですね。いいものはいい。それをうまく聴かせたい。知らず知らずのうちに凄いことになっている、そんな風に展開していけたらといつも考えていました。どうやらテクノの人にはトランスの人だと思われて、トランスの人にはテクノの人だと思われているような掴みどころのない立ち位置なんだろうと、ならばその曖昧さを最大限活かしたいと考えていました。

オーガナイザーから求められる場合は極力応えます。トランスのパーティではトランスをやりますし、テクノのパーティではテクノをやりますが、それだけに縛られずに自分から出てくるなにかを表現している、ある種ダークホース的なこんなDJが日本に一人くらいは居たっていいんじゃないの、正統なテクノやトランスをやるDJは他にもいるからという気持ちで、やりたいことを思い切りやっていました。


Kinocosmoの代表作「Liquid Machine」PV


1998年 Kinocosmo 1stライブ at 新宿リキッドルーム。ギターを演奏していた。この後メンバー5人編成へ。photo by Kotaro

1999年 代々木公園の春風にて

――Maniac LoveやGeoid、「EQUINOX」(それ以前)も含め、当時と今のクラブや野外シーンで決定的に違うもの、失われた自由みたいなものは感覚的にあるのでしょうか。

いまや皆プロ集団になってきていますね。あらゆることに手際よく対処できるようになりました。失われたものは、新しいものに対する情熱やワクワク感、かな?失われるものがあれば、同時に新しいものも入ってきます。なにが正解でなにが完璧かというものもどこにもない。

――活動当初から現在までインスピレーションを受け続けているものがあれば教えてください。

大自然、アート、グラフィック。


2001年 雑誌FLOOR 表紙 ドレッドだった

2001年 LEVIS 広告イメージキャラ

――30年前と現在で、自身がアーティスト、DJとして何が一番変化したと思いますか。表現力や現場の雰囲気のよみや流れ、いろいろといかがでしょう。

一番変化したのは精神面。やはり根がパンクなんで、最初の頃は「革命起こしてやる」くらいの気持ちでいました。そして30代半ばの頃、人助けをしたいという気持ちでレイキヒーラーになりました。そこから2年ほどかけてレイキマスターになって、実際にヒーリングの施術を重ねて試行錯誤を繰り返しているうちに、エネルギーの流れを読み取って辿ったりすることが出来るようになった。その頃から自分の出す音が少し変化してきました。具体的には、より艶っぽく柔らかい音になった。今までよりもはるかにフロアのことがわかったり、フロアと自分の中で何らかのやり取りがなされていること、そういうものに“より”敏感になっていった中で、一つの気づきが起こりました。

“革命”というものは自分の内側で起こるもの、ただそれだけだったと。内側に変化が起これば、おのずと外側も変わる=革命が起こる。だから、ただただ自分を変えるだけで良かった。そういう気づきでした。それまで「革命起こしてやる」と息まいて自惚れていた自分を恥ずかしく思いました。それから自分の中に少し余裕が生まれて、出す音がさらに深みを増して成長したような気がします。

―― なるほど、これは参考にしてもらいたいです。活動してからどのくらいの年月で自分らしいDJのスタイルが確立されたなと感じましたか。

初めてクラブでDJした時点ですでに原型はできあがっていたけど、ようやく自分の音になったと自信を持てるようになったのは6年目か7年目くらい。

――30年間ほぼ毎週コンスタントにDJをやっていると思いますが、続けることへの難しさみたいなのはどうでしょう。もし、この長い期間の間にやめようとか、少し時間をおいた時期みたいなものはありましたか。もし、あればどう乗り越えたのでしょうか。

好きならば、続けること自体に難しさは感じないです。毎回なんらかの気づきや学びがあるし、とにかく音を紡いでいく作業をもっともっとやっていきたい。気をつかっているのは体調や健康面。うっかり風邪をひいてしまって立っていることすら辛い時があった。でもDJをしていると、どんどん元気になっていきます。少々の風邪ならその場で治ります。それは音楽が持つ魔法でもあるし、自分が「いまここ」の地平に立つことで活性化しだしたという風にもいえます。

やめようと思ったり、時間をおいたことは、もしかしたらないかもしれない。ただ精神的にキツい時は無理に明るくしようとしても、もっとキツいので、そういう時は逆らわずそのままいきますね。それでその時の自分の状態が音に出てきて、そこにも逆らわずにそのまま出していくんですけど、その自分の出している音で気づきが起こって、バランスを取り始めようという働きにつながります。いつも終わったあとは身体も気持ちも元気になっています。

―― フロアにいるお客さんにも見事にそれが伝わっていますもんね。普段DJをするときにDJブースでの気持ちの切り替えやメンタル面の維持、お客さんとの距離感などで意識していたり、現場で重視していることはありますか。

できるだけ自分の世界だとか、自分がどこのチャンネルに合わせているかに集中していたいです。私にとってかなり重要なのは、ブース内の環境づくり。特に自分の耳とモニタースピーカーとの位置関係。10cm離れただけでも全く違うんで、なにかと調整してもらっています。プレイ前はしばし一人になって集中する時間が欲しかったりします。なによりDJである私が楽しんでやれないと何も伝わらないです。


2001年 革命を起こしたかった頃

2001年 CASIO G-SHOCK広告イメージキャラ

―― DJセットの中でロングセットと数時間のセットでは基本的にどのような構成の変化を設けていますか?
どちらもグルーヴや音色の変化、曲調、ミックスのタイミング一つ一つでフロアが一変してしまうと思うのですが。普段からの仕込みがその場で表現されている感覚なのでしょうか。


ロングセットでもそうでない時も、構成はほとんど同じだと思います。私はどうしても起承転結みたいなものをつけたがります。ロングセットになると、その起承転結のストーリーにじっくり時間をかけて肉付けしていけるので落ち着いた気持ちで取り組めますね。普段からの仕込みが現場でどれくらい活かせるかは…その時によって全く違います。前もっていろいろと準備していても、予想と全く違うこともあります。前日まではもうちょい激しくいこうと思って準備しても当日の雰囲気がそうではなかったとか…。

いつもは、例えば土曜日に2時間のDJがあったとしたら、木曜日あたりから気持ちの準備に入って、こんな感じのことをやろうと、大まかなプレイリストを作っていきます。持ち時間の倍くらいの分量で作ったプレイリストから選んでやっていますが、当日になってそのプレイリストが全く意味をなさずに使わないこともあります。結局はその時その時によって違うから、やりがいがあるし面白い。

――この30年間で蓄積された曲の整理方法や集め方みたいなものはありますか?   

パソコンを使うようになって楽曲管理がものすごく楽になりました。「Deep」とか「Peaktime」とかのキーワードをタグ付けしてあって、欲しい音がササッと一覧で出せたりします。楽曲をどこで探しているのかよく訊ねられます。いまはSpotifyを使っています。本当にSpotifyだけ?  とビックリされるけど、ここ3-4年はSpotifyだけです。

――以前はvinylのみで現在はPCのみと、鳴らす音(出音)に違いが出たと思うのですが、その辺りはスタイルを移行する時期に意識されたり対策はしましたか。これはお客さんの気持ち良さを一変させる話でもあると思います。アナログ音声をデジタル化する際の量子化ノイズ、サンプリング周波数に応じての高域エイリアシングノイズを避ける目的の20kHz以上の可聴帯域外の音がローパスフィルターでカット(CD)。デジタルではカットされている超高音域もレコードでは含まれている良音説。また、レコードでは、再生方法を起因とする音のぼやけ、クラブ等での大きな音量で再生する際のハウリング問題等々、どちらもメリット・デメリットはもちろんあると思いますが、両方を突き詰めたRee.Kとしての意見を教えてもらえますか。

必ずしもそこはDJやフォーマットだけの問題ではなくて、PAさんと一体になって音を整えていくものだと思っています。パソコンを買い替えたら改造していたインターフェースが使えなくなってしまって、今では以前のようにシビアに音質を気にすることはなくなりました。ただラッキーなことに、そのインターフェースが使えなくなった頃とほぼ同時期に、入れ替わるかのようにハイエンドのインターフェースを頂いたりして、宇宙はうまくできていますよね。

実際はその時のPAさんとリアルタイムで相談しながら調整していくことが多いです。私の音をよく理解してくれているPAさんが何人かいるんで、そうなると安心して任せられますね。昔はバイナルの扱いが大雑把すぎて、いつも盤面を指で汚しては、プチプチノイズを派手に乗せた音を出していましたね。今考えるとそれは無いな(笑)。

―― DJは音による空間時空における芸術作業であると思いますが、普段から触れているアートで関係性のあるものはありますか。

その表現!!まさにそうだと思っています。先述しましたが、私は大自然のフラクタルからインスピレーションを得ることが多いです。それはまさに、この宇宙が有限ではなくて無限だという証拠でありメッセージだと捉えています。「いまこの瞬間」を8分割、16分割、32分割、64分割、128分割と、どんどん微細に感覚を研ぎ澄ませていると、宇宙や物事には限界など、どこにも無いことが感じられる。全てが無限の方向性へ向かって拡がっています。そこまで集中してはじめて音が輝き出して生き物のようにうごめいてくるのをありありと感じます。その段階になると、私はそこに居るだけでほとんど何もしてなくて、あとは音楽のほうが鳴りたいように鳴っているという感じになっていきます。


2008年 CDでプレイしていた時代

―― 東京から現在では九州の方に拠点を移していますが、地域ごとに好まれる音楽の違いってあると思うのですが、その辺りは感覚としていかがでしょうか。

大都市は人口が多く全てが揃っていて、さまざまなものがあるけれども、郊外のほうがよりコアだと思います。

――トラック制作、リリースの方も頻繁にされておりますが、使用している機材や制作環境を教えてください。

Mac、Ableton Liveとmidi鍵盤のみ。10年くらいはこんな感じです。外部の音源やエフェクターはひとつも使わなくなりました。かつてはスタジオ部屋があったり、機材がたくさんあったけど、人生の転機や引越しと共に全てを手放しました。

――自宅に篭って制作というスタイルですか。

はい、自宅で作業しています。最近の楽曲制作に関しては、必要に迫られてやるくらいで、日常でシンセを使って音を出すようなことはしていないですね。

――コロナ禍で何かアーティスト活動に変化はありましたか? ロックダウンの時期に打ち込んだことや新たな発見があれば教えてください。

ライブ配信は面白かったです。予定していたブッキングが次々と中止になって、配信でドネーションを募っていたら、中止にならなかった場合と同じくらいの寄附金が集まった。ありがたいと同時にビックリしました。またしても宇宙はうまくできていました。

――そのネット配信ですが、現場と違うネット配信の特徴(面白さ)みたいなものを教えてください。現場にいかなくてもある程度の表現や思いは音に乗せて回線から伝えられる時代なのかなあと。

配信中でもチャットができるのは楽しいです。一つの画面でやっているので、リアルタイムでチャットについていくのは少々大変だけれども、リクエストをもらって、それをかけるとか、今からもうちょい飛ばしますよーと伝えたりとか。みんなバラバラの場所にいながらも強く一体感を感じる瞬間もある。時空を超えているような感覚がすごいです。おそらく20年前では、こんな感覚にまではならなかったでしょうけど。


【絶景×Music】 沖縄県久高島 カベ―ル岬 天気が悪く撮り直しができない状況での一発勝負


「Moved to Saito」をリリースした際の宣伝用40分トランスミックス


2015年 ヒーラーになり心境が変わり嫌いだった天然パーマを受け入れるように。

――不安定な時代になり、表立ってパーティが開催できなかった現状も手伝い、パーティが地下にこもり、80、90年代のレイビーなDIY的な流れを汲む音楽やパーティが主流となっている現実がありますが、このような動きは日本のシーンでも感じ取られたことですか?また、そういったことは現在までの経歴の中で幾度も体験なさったのですか。


そうですね、今までも何度かそんな事がありましたね。2000年前後、トランスシーンがピークを迎えていた時には規模が大きくなりすぎて、よりアンダーグラウンドな方向に向かおうとする動きも一部でありました。それと一時期、風営法がらみで逮捕者が出たり、クラブが次々と閉店に追い込まれた時も胸が痛かった。クラブやクラブイベントは、警察や裁判官が想像しているようなものとは違うと思います。でも、そのような時代があったからこそ、今まで法的にグレーな存在だったクラブがようやく社会に認知されはじめたといえて、結果的には良かったと思っています。

ここ1-2年、コロナでイベントが次々と中止に追い込まれていましたが、正直いってナンセンス。それで仲間割れしたりするのは、ますますナンセンスじゃないですか?  もっと一人一人がよく考え、自分のことに責任を持って、内側から湧いてくるものに従ってしっかりと生きなさい、というメッセージだと思っています。


――日本のシーンの中で何か気になる動きはありますか。 

いまの20代前半の世代の勢い。特に東京。キター!って感じがします。お互い刺激になると思うんでもっと深く絡んでいきたいですね。日本全体が変わるような気がしています。今後がすごく楽しみです。

――Ree.Kといえば、グラフィックも代名詞だと思います。30周年の野外partyのフライヤーや過去のリリース作品における自身のドローイングやPOSIVISION誌でのデザインや数えきれないほどのフライヤーデザイン、その他の企業案件等々、グラフィックイメージの源はどこからくるのでしょうか。日々、グラフィック作業に対して意識している行動があれば教えてください。

POSIVISIONは毎号テーマカラーを決めて2色展開でやってましたけど、元々は私が2色でフライヤーデザインをしているのを見た編集長が、そのノリでやりたいと提案してくれたからですね。グラフィックをやるときに意識しているのも、やはり大自然のフラクタルです。

――次の10年間40周年に向けて何か自分の中でのコンセプトや目標はありますか。

愛。健康。純粋さ。

――ありがとうございました!


2015年 グラフイック作品