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アルバムタイトル 『Green Monster』の正体とは? Kito Jempereの音楽人生に迫る。

Interview : Ken Hidaka (@kenhidaka)
Text, Edit & Translation : Norihiko Kawai 
Photo : Goorin

 ロシア・サンクトペテルブルク在住のプロデューサー兼ミュージシャン、Kito Jempereは、自身のレーベル、Kito Jempere Recordsから通算4枚目のソロ・アルバム『Green Monster』をリリース。
近年、Roisin Murphy、Junior Boys、Jessy Lanza、Au Suisseなど、エレクトロニックミュージックの進化を試みる多くの洗練された新鋭ポップ・アーティストの作品が話題となっているが、その中においてもKitoの新作『Green Monster』も高い注目を集めている。このタイトルには「感染病」や「戦争」といった意味合いも含まれているとのこと。

 インタビューでは、彼の日本に対する想いや日本人と在日アーティスト、電子楽器メーカーBlack Corporation社との交流についても触れてみた。さらに、彼の地元サンクトペテルブルクの音楽シーンや、音楽と芸術を支援する財団の設立を含む今後の活動についても語ってくれている。是非、この興味深いインタビューを読んで、Kito Jempereの作品に触れてみてほしい。 (Ken Hidaka)

ーー簡単に自己紹介をお願いします。

自分はトリッキーな人間だと思います。常に家族思いですし、ピーク時のDJからフェスティバルのプロデューサー、作曲家、ミュージシャン、デザイナー、コピーライター、劇場の俳優、映画のプロデューサー、ビジネスマン、そして放浪者など、さまざまな顔を持っています。時にはこれらすべてを一度にやることもあります。

www.kitojempere.com

ーー4枚目にあたるニューアルバム『Green Monster』のリリース、おめでとうございます。前作の『Yet Another Kito Jempere Album』(2020年)と同様に、今回も多くのアーティストとコラボレーションをしていて、その数は驚くことに26組にも及びますね。このアルバムはおそらく、コロナ禍に制作されたと思いますが、アーティストたちと実際に会って制作したのでしょうか? また、なぜ26名ものアーティストとコラボレーションしたのでしょうか。


ありがとうございます。私は世界中の多くのミュージシャンと常にコラボレーションし続けています。スタジオ制作では、もはやオンラインと対面の区別はしません。一部は一緒に何かをゼロから作り上げるためのリアルなセッションでしたし、一部はオンラインで行われたものもありました。時にはメールだけ、時にはチャットだけ、時には簡単なやり取りだけで済むこともありました。そして時には2日間スタジオで一緒に取り組むこともありました。私の唯一のルールは、アーティストへ最大限のリスペクトを常に表すことと、彼らが私に提供してくれた演奏パーツに対しても最大限のリスペクトを表明することです。

前作と今作、両方のアルバムに共通するモットーは、「何か創造する際に、制作に関わるアーティスト達がワクワクする為の刺激を必ず相手に提供するようにしました。そして、新しいアイデアや楽曲を生み出すことを促しつつ、彼らの作品そのままの魅力を保ち、受け入れることを大切にしました」。

コラボレーションの数は特別な意図があったわけではありません。制作プロセスの中で自然な流れで起こったことです。ただし、わずか17日間の収録期間でしたが、トランペットやギター、ラップ、その他の何かが足りないと感じたときに、どのベルを鳴らせばいいかは自然にわかりました。


アルバム『Green Monster』のジャケ

ーーこのアルバムを制作する際、特定の目標や制作前にイメージしたコンセプトはありましたか。

前のアルバム『Yet Another Kito Jempere Album』がリリースされるまで気づきませんでしたが、私は3年ごとにアルバムを制作していることが判明しました。新しいラウンド、新しい章、何かが動き出している気がして、その動作を感じとり、音楽として表現しています。それだけです。私のアルバム制作の目標は、実際にアルバムを制作することです。シンプルに聞こえるかもしれませんが、私にとってアルバムは人生の一部であり、これらの3年間を捉えた自分自身だといえます。

ニューアルバムは、『Yet Another Kito Jempere Album』と同じ構造でできています。どんな作品にするのかのアイデアが閃き、トラックリストの順序に沿ってデモを収集して録音し、それからメロディや歌詞、コラボレーションなどを積み上げて、完成させていきました。

コンセプトはシンプルです:Green Monsterの旺盛な時代に愛を捧げる。Green Monsterとは感染症や戦争を指しています。

ーーパンデミック中、世界中の多くのアーティストと同様に、音楽制作に集中していましたか? その変化は難しかったですか? また、今回のアルバムのレコーディング・プロセスにおいて、コロナ禍前との変化を教えてください。

前作はCovid-19が世界に広がる直前に制作されました。その頃は多くの国で公演を行っていました。もちろんCovid後に状況は変わりました。公演は大幅に減り、その代わりにより重要なことに集中するようになりました。世界の状況とは対照的に、この休止期間は私にとってある意味、癒しの時間でした。大きなこと、より重要なことに集中するための時間とエネルギーを見つけることができました。その前はひょっとして間違った方向に向かっていると感じていたこともありましたが、この世界的にもほぼ完全に停滞した期間が、新たな自分を見つける手助けにもなりました。

本作は、もう一つの「グリーン」な時期に録音され、制作された音楽にも、とても良い影響を与えてくれたと思います。流行や期待の縛りにとらわれず、私自身がその手がけている音楽に真正面に向き合っているだけです。自分自身と友達だけのためにだけに作られ、音楽だけに集中し、自由な形で創出され、数字やチャートを気にせずに制作した心に訴えるアルバムです。感情を赤裸々に表現しています。


2019年Boiler Roomでのパフォーマンス

ーー過去の3つのアルバムを比較した際に、貴方はどのような違いを感じていますか。私は、2017年にHell Yeah!からリリースされた2ndアルバム『Sea Monster』と、あなた自身のレーベルからリリースされた3rdアルバム『Yet Another Kito Jempere Album』、そして新しいアルバム『Green Monsters』を比較すると、音楽のスタイルに進化と変化を感じます。

私はそれを二重の進化が起きたのかと思いたいですね、ハハハ。2014年の『Objects』と2020年の『Yet Another Kito Jempere Album』は姉妹アルバムです。どちらも白黒でデザインされ、どちらもハウス・ミュージックをベースにしています。おそらく次回のアルバムもこの方向性になるでしょう:外界からやって来た4x4のリズム。一方、『Sea Monster』と『Green Monsters』も姉妹アルバムです。どちらも『Monster』の言葉がタイトルに入っていますが、明快なハウスやダンス・ミュージック以外のさまざまなスタイルを組み合わせています。これらは全て大きな絵の一部にすぎず、それがどのようなものになるのか私にもまだ分かりません。ただ創造されるのを待つしかありません、時間が経過し、音楽や私がどのように進化するのか楽しみです。次はまた白黒のハウス・アルバムになるのか、別の『Monster』になるのか!? 楽しみにしていてください。

ーー新しいアルバムにとり入れられた非常にモダンなエレクトロニック・ポップ・サウンドをとても楽しんでいます。ほとんどの曲は伝統的なポップ・ソングのように短く、多くの曲にはボーカリストがフィーチャーされていますよね。今後はクラブ向けのプロダクションよりも、シンガー・ソングライティングの作曲構造により注力していくのでしょうか? それとも、このアルバムだけの取り組みだったのでしょうか。

話すと長くなるんだけれども、ダンス・ミュージック自体が私の人生に入ってきたのは偶然のことで、最初から計画していたわけではありません。私は元々ポップスとパンク・ロック好きな少年であり、自分の音楽を制作し始める前にはダンス・ミュージックを聴いたことがなかったんです。ダンス・ミュージックは自分の作品を1日以内にスピーディーに完成させるための最適な手段として選んだものでした。パンク・ロックやロック・バンドで演奏した経験を持つ私にとって、ダンス・ミュージック畑はギグを得るチャンスも多く、他のバンド・メンバーと収入を分け合う必要もなくなり、ツアーもしやすく、自分一人で責任を持てるチャンスでした。そして、私は引き続き自分が作ったトラックに自分の声や信念、アイディアをとり入れました。それは私にとって魅力的でした。また、『Green Monster』に収められている音楽は私が本当に表現したかったものです。ダンス・ミュージックは、今回のアルバムを制作するためのキーでした。それによって自分が本当にやりたかった音楽を完成させることができました。これは一見すると奇妙かもしれませんが、ある程度計画されていたといえます。最終的に本作1枚のレコードに自分の作ったものを詰め込むチャンスを得たんです。僕はこの道を自ら進みました。そして、『Green Monster』の時代が訪れたのです。


スタジオでのセッション

ーー貴方は日本人アーティストや日本国内に在住している他国籍アーティストと良好な関係を保っているようですね。私はあなたに会ったことがあります。2017年12月、ロシア文化交流イベントであなたのバンドも共に東京にきて、その時に私とMax Essa、Dr. Robが主催するBar Bonobo(東京)でのパーティーでもDJをしていただきました。サンクトペテルブルク(ロシア)と東京のクラブ・ミュージック・シーンには何か違いを感じますか。

日本が大好きなんです。Kito Jempereという名前はフィンランドと日本の文化の融合です。2017年のVentとBar Bonoboでのライブ・ショーは本当に素晴らしいものでした。実はその時、とても感動的でした。Mumiy Trollと一緒にツアーをしていたので、確かに忘れられない時間でした。東京は私が世界中で最も愛しているトップ5の都市の一つです。

クラブシーンの違いについてですが、異なる地域のクラブカルチャーを比較するのはあまり好きではありません。それは常に政治的な側面や文化的な側面、人々の行動など、多くの要素に基づいているからです。私は分けることよりも統合することが好きです。皆を統一するものは音楽ではないかと信じています。私は旅行した国やプレイした場所において、いつも素晴らしい人々に囲まれていることに幸運を感じています。私はプレイする曲に愛情を込めて、それを聴く全ての人々の笑顔から愛情を受けとることができて幸せです。東京、サンクトペテルブルク、シカゴ、ベルリンなど、どこでも同じです。私は音楽を共有し、友人に会うのが大好きです。ダンス・フロアで素晴らしい時間を過ごすと、すぐに友人ができるような気分になります。私は世界中どこも大好きです。だからこそ、ダンス・カルチャーは自分にとって委ねられることのできる文化だと思います。

ーー日本在住のDJ/プロデューサーであるMax Essaはあなたの音楽のリミックスをいくつか手がけ、新しいアルバム『Green Monsters』に収録されているトラック「Closing Night Shift」の素晴らしいリミックスも最近完成させましたね。

Maxとは最初、オンラインで出会ったと思います。その後、日本でのギグが彼との唯一のリアルな対面でした。そして数年経っても、自分のアルバム・トラックの1つをMaxにリミックスしてもらいたいといつも思っていました。Maxは私自身のスタジオ・アルバムの中から、今まで3つのリミックスを提供してくれました。今後もリミックスをお願いしていくと思います。彼はオリジナルの録音で足りなかった美しい要素を毎回届けてくれます。是非『Sea Monster』に収録されているトラック「Ampa」のMaxによるリミックス
を聴いてみて下さい。
彼の手による「The Closing Shift At Jazz Cafe」も楽しみにしていてください。そう、最近、私のNTSの番組内でもピッチを上げた彼のリミックス・バージョンをかけたので、こちらもチェックしてください。

ーーあなたは日本の歌手、Minako Sasajimaさんとも一緒に仕事をしましたが、彼女とはどこで出会いましたか? また、曲のタイトル「思考気雲」というのは日本語で「brain fog」という意味ですが、なぜこのトラック・タイトルを付けたのですか。

Minakoさんについては、サンクトペテルブルクで初めてお会いしました。私のKUZNYAHOUSEで「Lovebirds + Orchestra」のパフォーマンスを行った時でした。おそらく私かそのクラブの周年パーティーだったので、すごく特別な瞬間でした。彼女の歌声をBastiのレコードで聴いたことがきっかけで、最初は彼女の声に、その後初めて対面した時に彼女自身にも、そしてアルバムの録音においてもどんどん惹かれていきました。彼女との共作においての私自身のアイデアは、トラックの中で予想外の瞬間に歌詞が日本語から英語に変わるようにすることでした。彼女はそれを完璧にやってのけました。メロディも彼女によるものです。
面白いことに、「思考気雲」は「Ride On Time」を元ネタにしています。東京で7インチを購入し、ピアノのコードを厳しくカットして再構築しました。しかし、基本的な部分はそのままです。集中して聴いてみてください。ボーカルのチョップのような要素も聞こえるかもしれません。
Minakoさんにここでたくさんの愛を送ります。



ーー日本について、また日本のアーティストや日本に拠点を置くアーティストと一緒に仕事をすることはどう思いますか。

私は単にもっとコラボレーションをしたいと考えています。日本のスピン・オフ・アルバムを制作することを企画しているので、InstagramのDMに気軽に応募してください。世界でも他に類を見ない魅力がある東京の街が本当に大好きです。

ーー 海外の日本音楽ファンのように、あなたも日本の音楽が好きですか? 好きな日本のアーティストなどはいますか。

私自身が気に入っている日本のアーティストのリストについては、非常に広範であり、レコード棚を見ない限り特定の名前をあげるのは難しいですが、いくつか共通する点は、DJ Krush、Kenji Takimi、そして日本アーティストが手がけたカバー・バージョンです。これらの3つはなるべく多くフォローしようとしています。日本のカバー・バージョンは特別なものだと思います。例えば、石川秀美によるPet Shop Boysの「Love Comes Quickly」のカバーなどが印象的です。また、日本っぽく聴こえるが実際には日本的ではないものもあります。Duca Biancoからリリースされた私が手がけた「Drakon」7インチ・エディットもそうです。これは日本的でありながらも日本的ではない、不思議な曲です。

ーー現在、日本のシンセサイザー会社であるBlack Corporationとコラボレーションしていると聞きました。Black Corporationとの計画について教えていただけますか。

私たちは新しいシンセサイザー会社を立ち上げる予定であり、この計画はAlexandre Gareseと新しい音楽とアートを支援する財団を立ち上げるコラボレイションの一環でもあります。その計画では世界中の多くの文化プロジェクトに参加する事です。最初の製品は来年の予定で、私とBlack Corporationのソーシャル・メディアを注視していてください。できるだけ早く情報を発信します。


スタジオで使用しているモジュラーシンセ

ーーBlack CorporationのオーナーであるRoman Filippoyさんと一緒に仕事をしているのですね。以前から彼と知り合いだったのですか。

はい、Romanは私の旧友です。おそらく2008年から2009年頃でしょうか、私がUniqutunesというバンドをやっていた頃に、彼はそのライブを手がけていたと思います。その後、彼が2010年か2011年に私自身の最初のソロ・トラックをレコードでリリースして以来、私たちは凄く仲良くなりました。それはShanti Recordsからリリースされたもので、私がSaint Petersburg Disco Spin Club名義で初めてリリースしたソロ・トラックでした。私、Lay-Far、Anton Zap、Rick Wadeを含む4曲入りのアルバム『My Friends』もリリースしました。その頃がバンド活動ばかりしていた私自身のDJ/プロデューサーとしてのキャリアの始まりでした。Romanが後押ししてくれて、キャリアの第一章が始まり、そして、20年後に私たちは第二章を発足しようとしてしています。Romanは現在アメリカのLAに住んでいます。
私は幸いにも、彼の手を借りて『Green Monster』の音楽と映像の制作を行うことができました。多くのトラックがBlack Corporationの傑作“Deckard's Dream”を使用して録音されています。2023年2月には彼の彼女Nancy Schneiderが「The Language Of Love」のビデオを制作してくれました。Roman、本当にありがとう。あなたとの未来がもっともっと面白くなることを楽しみにしています。


ーーこの時代にRomanのようなロシア人のクリエイターが日本にやってきて、東京でシンセサイザー会社を設立するのは非常に興味深いことだと思います。ロシアの電子音楽の歴史については詳しくはありませんが、多くのアナログ・シンセサイザーが作られ、ソ連時代から続く電子音楽の文化が存在していると思います。私はEdward ArtemievやZodiacといった古いロシアのアーティストのアナログ・シンセサイザーを使用したアルバムを持っています。その辺りはいかがですか。

Eduard Artemievは私の一番好きな作曲家の一人で、彼は「宇宙の音」(ロシアでは、ほとんどのシンセを起用した音楽のことをそう呼んでいた)と、歴史的な黄金時代の作家が書いていた「ロシアの魂」を絶妙に組み合わせました。
私は、シンセサイザー音楽に対する親しみやすいイメージは宇宙への愛だと思います。ガガーリンとガンダム。そう、いくつかの共通点を感じることができます。どちらも内面的なもので、それが音楽に対する姿勢に影響を与えています。もちろん、ソ連時代にシンセサイザー音楽が重要な位置にあったとはいえませんが、映画やアニメの中でその音楽は驚くほど披露されていました。もし『The Mystery Of The Third Planet』を見たことがなければ、ぜひ見てください。(そのサントラを手がけた)Alexander Zatcepin State Symphony Cinema Orchestraが、私に多くの影響を与えてくれました。本当に素晴らしいです。

ーーあなたが育ったサンクトペテルブルクの音楽シーンについて教えてください。
同じサンクトペテルブルク出身のThe New Composersとコラボレーションしたそうですね。Brian EnoのプロデュースでPete NamlookのレーベルFaxからリリースされた彼らの音楽を私はとても気に入っています。


私の音楽活動が始まったのは2003年で、その頃はNaked Lunchというパンク・ロック・バンドで活動していました。90年代以降のロシアはまだハードコアで、泥だらけの暗い街、寡頭政治が始まる前の建国前の時代で、国はまるで過去の時代に戻った雰囲気で、新しい何かを模索しているようでもありました。音楽はまだそれほど一般的ではありませんでしたが、私たちはとても速いスピードで全てを手に入れていました。そのため、私にとって2003年は80年代のパンク・ロック時代のようでした。そして2005年には電子音楽とジャズを融合させたバンドUniquetunesを結成し、90年代の音楽シーンに飛び込みました。その後、2010年にはそれまでの経験を元にSaint Petersburg Disco Spin Clubを結成。そして2013年にKito Jempereとして本格的な活動を始めました。この10年間は私にとって、数十年の音楽人生のようなものに感じられました。

サンクトペテルブルクの音楽シーンは非常に大きく、素晴らしいものです。劇場のようで、映画化されたような特別な場所です。

The New Composersとのコラボレーションについては、彼らと一緒に2020年のアルバムのオープニング・トラックを制作できたことはとても名誉なことでした。90年代に彼らの音楽を聴いていた頃は、こんなことが起こるなんて思ってもいなかったので本当に光栄でした。Brian Enoと共に2000年頃にサンクトペテルブルクで録音されたアルバムは、私にとってまるで一冊の本のようなものです。「Palace of Friendship on Fontanka」、素晴らしい作品です。まだ聴いていない方はぜひ聴いてみてください。



ーーサンクトペテルブルクやロシアで音楽家やアーティストとして成長した経験はどうでしたか? 既に活気のあったアンダーグラウンドやクラブ・ミュージックのシーンに参加し、活動を始めたのですよね。

そうですね。当時の私は、クラブ・ミュージックに精通していたというよりは、パンク・ロックに影響を受けたミュージシャンでしたが、90年代のロシアではレイヴ・カルチャーがとても盛んでした。主なレイヴ・アクトは国際的なアーティストで、The ProdigyやScooterなどのアクトが大きな人気を博していました。レイヴは90年代初頭にモスクワのVDNHでGagarin partyとして始まりました。宇宙とシンセサイザーが常にテーマでした。

ちょっと余談ですが、97年頃に私が最初にリリースした音楽は、eJayなどのエレクトロ・ビートを使ったc90カセットでした。

ーー現在、美術コレクターで投資家のAlexandre Gareseさんと共に音楽や芸術を支援するための財団の設立に取り組んでいると聞きましたが、それについて教えてください。

はい、私たちは7年間外食産業やクラブ・シーンで一緒に働き、私たちが持っている興味や可能性がこのセクターよりもはるかに広がっていることを明確に感じています。ここで得たものを結合させ、基盤に置くことで、多くの可能性を提供し、多くの人々を結びつけることができます。私にとってこれが最も重要なことで、人々のより良い未来のため、芸術のため、そして人々を結びつけ続けることです。この財団はまだ初期段階ですので、今後の展望を見守って頂きたいです。
最初に予定しているのはシンセサイザーのプロジェクトです。ありがちなフレーズですが、楽しみにしていてください。


圧倒的な人気を誇るバンド編成でのライヴ

ーー最後に、日本の読者の皆さんへメッセージをお伝えします。

私は日本が大好きです。皆さんが私の考えに深く触れ、興味を持って頂ければ、ありがたいです。『Green Monster』は、たくさんのレイヤーを重ねて制作したアルバムなので、是非じっくりと聴いていただけることを願っています。日本のファンは細かい部分までしっかりと聴いてくれるので、とても素晴らしいことだと感じています。愛を送りたいです。また、早く東京に戻って、プレイしたいと思っています。

Love,
Kito