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RAHA’s thoughts - vol.4:『1999 New Year’s Eve in UK』


 



みなさんメチャメチャ久しぶりです、元気ですか? 本当に久しぶりの投稿になります。だいぶ時間が空いてしまいましたね。

僕の方は、去年もまだ海外には行けていません。その代わりに、前回でも書きましたが、この3年は5月から12月の間、山の森林の中の家で毎年4ヶ月ほど過ごしています。国内ではあれど、これまでこれほど長くこの愛する場所に居れた事がなかったので、森の下、自然の中での日々の様々な事が実に新鮮で、おかげでここまでストレスもさほどない生活を送れていました。

特に去年の4月5月から、向こうの友達がいつ来るんだいつ来るんだと代わる代わるに連絡をしてくれましたが、自分の体調など全ての要素を熟考した結果、去年は見送る事になりました。口惜しいけれどどうやら昨年の夏のヨーロッパのパーティーシーンはinsaneだったようですね。まあ仕方がない。That's life.



さて、今回はだいぶ空きましたが前回の『1992 NY』に続いて、初めてヨーロッパに行った時辺りの事を書きます。1999年12月です。

ですがそれにいく前に、流れがあるので今回もっと若い時の事を少し書いておきます。
中学に入ると小遣いを溜めて洋楽のレコードを買うようになりましたが、10代半ば過ぎぐらいから徐々にFunk, R&Bといったブラックミュージックによりカッコ良さを感じるようになり、必然16,7才ぐらいからはHipHopを聴く割合がグンと大きくなりました。今とは時代が違いますから、この当時は高校生でHipHopを聴いてるような人はまだ本当にごく一部でした。初めて買ったHipHopのレコードはGrandmaster Flashでした。80年代前半当時からこのFlash始めSugar Hillからのリリース, カーティス・ブロウ等々を聞き、まだ17の高校生だったけど半年間学校を休学し19と歳をごまかして六本木の一番流行ってたディスコ NIRVANAでトレンチを持っていた頃には、そのフロアーでは “White Lines” (’83)なんかがon timeでかかり、Queue, Jespa, Embassyといった黒人ディスコで年上の上手い人達の踊りを見てニューダンスを必死に覚えていたものです。これ以後様々な面白い時代を経験してきたけれど、僕の中ではこの頃の六本木のディスコシーンに勝る苛烈な興奮は存在しないのではないかという強烈な感覚がいつまでも熱い記憶と共に残っている。

1983.12.31のは大晦日なので従業員全員メイクをしています。17才の時。
@NIRVANA



Grandmaster Melle Mel ‎- White Lines

White Horse - Laid Back
アメリカとヨーロッパのもの両方かかってたな。


そして、これも前回に少し書いたけど、その後幸せなダンサーライフが10数年続き、これもまた特にその前半は飛びっ切りに楽しかったわけですが、一方で90年代半ばに入る頃からちょっとNYのHipHopの音楽感(観?)が自分の嗜好と少し違う方向に行き始めたように感じるにつれ、自分の中でHipHopを聴いている時に以前と同じ興奮を感じる割合が悲しいかな少しずつ減っていきました。

USのハウスに関しては、90年初頭からうちら周りに関してはみんなクラブで踊るようになっていたので、”Whistle Song” やSohoなんかはNYのクラブでもその時にOn Timeで踊れていて音楽的にもすごく好きだったけど、個人的には自分のメインには成り得ず、この頃ぐらいからはちょっと何かまた別な強い刺激を感じるものはないのかと徐々に求める気持ちが強まっていきました。

そんな中、正直僕自身はそんな早い方ではなかったですが、徐々にTrip HopからBreak Beats, そしてBig Beatといった辺りに触れていきました。ダンサーシーン内では国内で誰よりも常に早い、最も近い友人のいい影響も常に受けれていたのは幸いな事でした。
当時NYだけを見てVIBE, SOURCEばっかりを読んでいたのを、「一度今持っている先入観や偏見といったものを捨てて、世界のダンスミュージックを見渡してみよう」というような話しをその頃したのを(彼の家で聞いたのを)今も覚えています。

98年の春には、僕らの主催するダンスイベント『MAIN STREET』で、初めてそういった音を使ったSHOWをオープニングのど頭に据え、当時の既存のダンサーシーンの音楽の概念をぶち壊す、というような事もありました。ちなみにあの日は1900人を集め、当時のCLUB CITTA’ではBeasty Boysコンサートと並ぶハコ歴代トップの集客をぶち建てた爽快な1日でした。



この年の前年頃から、ヨーロッパの当時かかっていた様々な音をより聴くようになった。流行ってる人、聴いておいた方がいいと思うものは極力色々聴いた。

自分の思い出深いターニングポイントの時代の記憶として一生残しておこうと、実家の自分の部屋に当時からこうしてる壁。(一番上の1列はまた別の趣旨の列)



聴く音のジャンルは時を追って大きく変化もしていき、Electronic Musicの中でも始めのうちはトランスをかなり聴くようになった。トランスの中でも、2つに大きく分けると、一つはサイケ、もう一つはお洒落な方のトランス。

後者は当時思い切り流行っていたUrbanなトランス、要はエピック・トランスを聴くようになった。今振り返り当時のその聴いてた音とかを聴くと、個人的には実際少し恥ずかしい気持ちにもなるところもあるけど、当時の自分の環境下と流れの中で聴いてて、胸を張ってこれを聴きたいと思って聴いていた。’90年代Velfarreで日曜朝からやってたほとんどがお洒落な外人客だけのサンデーアフターヌーンパーティー、あれはすごく面白かった。

もう一方のゴアとかサイケ・トランス。これは音楽的には自分にはいささかバキバキ過ぎなきらいはあったけれど、その中でもプログレッシブ・トランスというみたいな辺りの音はかなりしっくりきてて好きだった。そして何より僕なんかが知り始めた頃のあのシーンは、遊びに行くようになってとにかく面白かった。僕なんかが行き始めた頃はまだいわゆるギャル・ギャル男系統の人達がこのジャンルを知る少し前だったから100%皆無で、自分達以外はちゃんとしたずっと昔から居るようなプロのサイケのお客さんがそのほとんどだったような頃でもあり、とにかくそのフロアー内の素晴らしいバイブスに感銘を受けたものである。毎週日曜夕方のよよこー南門は本当に本当に楽しかった。Raveも本当に楽しかった。8月の時点でもう8コもでかいの行っているのに気付き、中目の基地でこれはもう頭がおかしくなるからちょっとレイブ自重しておこうなんて話し合った時もあった。

でもHipHopとかとは異質の音聴くようになりしばらくして99年に入ろうとしていた時でも、自分自身は正直まだ心の底からはこういった新たに聴くようになった電子的な音が、完全にはバッチリ嵌まり切っていなかったと感じていた。10代からBlack Musicで大きくなり、ずっと生音の音楽で育ってきた。’80年代にはもちろんHigh Energyとかの洗礼もディスコで働いていた事もありしっかり受けてきたけど、基本的にはモロにelectronicな音がどちらかと言うと生理的にむしろずっと苦手だった。その頃いつも(←’98,’99頃)、今聴いているこれらの自分にとっての新しい音が100%心の底からはいいと感じないのは、自分の感覚が今の時代感に追い付いていないからだ、と考えるようにしていた。とにかく聴いて聴いて体に自然に馴染んでいかせないとと思っていた。

だけどそんな中、ベタだけど1枚のアルバムがそれを克服してくれた。

Underworld - Beaucoup Fish


このアルバムが、それまでまだ迷いのあった自分の全てをぶち壊してくれた。このアルバムに出会った時、Electronic Music全般に対してのもう何も迷いがなくなった、そう思った。毎日渋谷に遊びに向かう車の中で、普通に聴いていてあまりに素晴らしくて、普通の昼間でも何度も涙が溢れ出た。
この頃くらいまでは、まだジャンル分けとかよく分かってなかった。xxx Houseって、一体幾つあるんだよ、と思ってた。Technoとかはまだ良さがよく分かっていない。覚えてるのはもう少し前かに、HarlemでKenseiに、最近トランスを聴いてるんだ、と話したら、俺はTechnoかなあという答えで、ああやっぱり彼は常にちょっと先に居るなあと思ったの覚えてる。

日曜の代々木公園と共に、週末は頻繁に新宿リキッドルームとかに遊びに行くようになった。それまで、17ぐらいから一部のDiscoを除いて入る時にお金を払った事はほぼなかった。並ぶという事もまずない。あのGOLDでも、結構な回数行かせてもらったけど、大人の今となっては本当に申し訳ない限りだけど、お金を1回も払った事ないし並んだ事も一度もない。若い時から遊んでいて作っていった人の繋がりに加え、ありがたい事にダンサーというものは当時すごく価値を付けて頂いていた。
新宿リキッドルームに行くのに、こんな階段をずっと登っていくのか、とすごく面白かった。そして、最初はうちらの事なんか誰も知らないから、その1F部分からの長い列の最後尾から普通に並んだ。そして入口で普通に4,500円だかとかを払って入るのが、未だかつてない仕打ちで(笑)ものすごく新鮮でそれがすごく楽しかった。Harlemとかに行ってる時は周りの人達ほぼ全員にうちらの事知られてる。ダンサーのシーンとはそういうものだ。気分もいいけどそれが常にだと疲れもした。それが、この新しいシーンに遊びに行くようになったら、誰も自分達の事を知らない。これはすごく痛快で楽しい感覚だった。まあでも何回かそれをしているうちに、やっぱそろそろパワーを使っていった方がいいんじゃないかという気持ちになり、できる時はそうさせてもらっていった。
この98年当時、それまでHipHopのシーンに居たダンサーもダンサーでない人も合わせ、近しい仲間達30人以上とかの固まりでその新しい遊び・音を始めていったというのもすごく大きく、毎週末毎週末が心から本当に楽しかった。この頃の事も一生決して忘れる事はないし、あの時の行動に後悔する事は何一つない。

写真ほとんど撮ってないのでその中の数少ない写真から。僕の顔が邪悪過ぎるが。




そしてこの頃からハッキリと、Progressive Houseが明確に好きになった。
エピックトランスにはそれまで触れた事のなかったエモーショナルな感動に琴線を揺らされまくっていたが、やっぱりdarkな音はどんどん自分を侵食していき、Global UndergroundやRenaissanceなどは当時出る度に全部買っていた。Northern ExposureやBedrockも渋かった。プログレで一番最後と思って買った2002年のDave SeamanのRenaissanceは今でも時々ドライブしてる時に聴いている。このMix CDは過去最高のMix CDの一つだと個人的に今でも思うので、今の若い人も試しに一度聴いてみてはと思う。

他に聴いてた特に代表的なのはこんなような曲達。
Saints & Sinners - Pushin Too Hard (合わせてTrisco - Musakも)
Azzido Da Bass - Dooms Night (Timo Maas Remix)
Roland Klinkenberg - Inner Laugh (James Holden Mix)
個人的にメチャクチャ好きだった
Sasha – Xpander
後にSashaがYellowでこの曲かけた時に、真ん中の柱の横で盟友カイエと二人で両手でX印をブースに向け合図を送るうちらに大喜びしていたSashaの笑顔は忘れられない。
Solar Stone – Seven Cities (Solar Stone's Atlantis Mix)
何度フロアーで涙を溢したか分からない
DJでは、カッコイイ人それこそたくさん居たが、中でもNick Warrenのスタイルは自分的に本当に好きだった。後に、2015年辺りだったかに、IbizaのAmnesiaのListの列に一人で並んでいて、後ろから話しかけられた品のいい紳士が話してみたら実はそのNick Warrenだと分かった時はそれは興奮したものだった。


そんな中で、柔らかいのもdeepなのも両方聴きながら、1999年の年末を迎える事になる。
この年の年越しは通常とは違う特別な意味を持っていた。2000年の幕開けなのである。日本ではそこまでフォーカスされていなかったが、海外ではもう夏ぐらいからは1000年に一度しかないというこの歴史的な区切りであるミレニアムイヤーの話題で持ち切りだった。Ministryやmixmagなど向こうの雑誌では、各パーティー、fesのこの年のNYEのものすごいラインナップが次々と発表されていき、年末に向けた盛り上げはそれはすごいものだった。
この世紀のNew Year’s Eveを、2000年となるその瞬間を、我々はどこで迎えるべきかという会議がBobbyの家で行われ、少なくとも日本では間違いなくないよねというところから始まり、当時うちらの視点で世界で一番人気のあった2つのfesに絞られた。一つはパーティーのCreamがYellowでも行われていた “Creamfields”、そしてうちらが選択したのは、もう一つの方の、最もキャッチーであったと同時に間違いなく当時うちらが見ていたシーンを最も象徴しているだろうと思われた “Gatecrasher” だった。前述のような当時の雑誌では、とにかくこのパーティーの事が常にでかく扱われていた。2000年の0時になるそのカウントダウンの瞬間を、25,000人が集まるGatecrasherのフロアーのDJブースの目の前で迎えようという事に決定した。

そして、このシーンの世界のトップDJ達は、NYEとかは一晩で何カ所も掛け持ちをしていて、1gigが2~3000万円とかのギャラで、各パーティー間を自家用ジェットでもって移動するんだよ、みたいな事を聞いて、ほんとかなあその額はと思いながらそのスケール感に驚愕してた。

当時ヨーロッパのこういったシーンでは、派手なサイクリングシャツを来て髪もツンツンにしたCrasher Kidsという若者で溢れかえっていた。音はそのDJによってかかる系統がそれぞれ違うが、トランスとプログレが混在したすごく勢いのある面白いシーンだった。


当時、日本のパーティーで遊んでいる時に、いい曲がかかったらDJブースに向けてみんなでこれを見せよう、とDarumaがさっそく作ってきた『TUNE』のサイン


これは僕がいち早く東急ハンズで見つけてきたホーン。フロアーでパーティーの一番いいタイミングで鳴らす用途。海外ではfesだけでなくサッカーとかでもプオ~ンと大勢で鳴らしているヤツだ。高かった。僕の知る限りでは日本で僕より先にこれを鳴らしていた人は見た事がなかった。


翌年GWのMAIN STREETでのCRASHER KIDS。この時のショーも盛り上がったし、何よりお客さんはビックリしてた。





さあいよいよ人生初のヨーロッパ。
NYEの会場であるSheffieldはLondonから列車で3時間強。そのSheffieldには31日の当日昼間に現地の駅で待ち合わせして、それ以外は全部いつものように一人旅。12/25から1/10までで、NYE前後以外は基本ずっとLondonに滞在し、年が明けてから最後の数日をアムスへ、というプランを建てた。
クリスマス当日にまずはLondonに。初めてのヨーロッパ、やはり何かがニューヨークとは違うなあこの感じ、というのが感想だったように覚えている。ただ、世界の大都会という点で、東京も質は全く違えどある意味共通するところは多いので、昔初めてそのNYに降り立った時のような驚きや衝撃はそこまでなかったかもしれない。
リージェントストリートはなんか公園通りっぽいなあと思いつつ、ピカデリーサーカスでは移動遊園地をやってて、ああいうの見たの多分あれが初めてでちょっと楽しかった。その夜には、ヨーロッパで初めて行ったピカデリーサーカスにあった何とかって有名なクラブで、日本でと同じような楽しいハプニングもさっそく起きたしw。通りの裏道では少し危険な事もありかけたりと、色んな事があった楽しい滞在だった。


そして遂に31日。1,000年代がこのあと数時間で終わるというのが実にシュールでエモーショナルだった。そしてそれ以上に、あと少ししたら新しい次のmilleniumが始まるというのが、とにかく何というかもう興奮以外のなにものでもなかった。人間普通はその1/10の100年も生きられるわけじゃないのに、その1,000年なんていう変わり目のタイミングに今居合わせられるという事が、自分達だけじゃなく周りの人達全てをすごくドラマティックな特別な気分にさせていた。

ロンドンからシェフィールドまでは列車で3時間以上かかってとにかく大変だった。昼間のうちに着いて仲間と合流し、Sheffieldの街を一周。Gatecrasherに行く人達で徐々に街は覆われつつあった。何時頃だったか忘れたが、余裕を持って会場のDon Valley Stadiumへ。

Sheffield駅前にて。唯一ある写真




エントランス・パス


もうあまりに楽し過ぎて、細かいところはもうあんまり覚えていない。
Time Tabelはこれ。Sashaの始めの方で中に入れたんだったと思う。


そして、それまで雑誌で見聞きしていたように、会場はたくさんのCrasher Kidsで溢れていたが、普通のかっこして来てる人はそれ以上に全然居たw


そうこうしているうちに、一緒に動いていた仲間達ともはぐれてしまい一人になっていた。1999の残り時間も徐々に少なくなっていった。あのパンパンの人の中で一番前まで進んでいくのは並大抵の事ではなかったが、この瞬間のために日本からわざわざやってきて、フロアーの後ろの方とかに居るのでは話にならない。ヨーロッパの人々の中に入るとよりいっそう体がコンパクトなのを利して、時間が迫り過ぎ前に行くのが不可能になってしまう前に、日本から建てていた計画通りに、メインのブースの前の一番いいところに辿り着いた。

そしていよいよその時が。2分前からはそれまでのDJは止まり、ついにカウントダウン。
誰もにとって平等な、特別な瞬間が訪れた。5分間音楽は止められ、新しい時代を迎えたその瞬間、周りのみんなは、それぞれその時に隣に居た人同士で抱擁し感動を分かち合っていた。それはそれぞれの恋人であり、一緒に来ている仲間であり、あるいは全く知らない人同士であった。

独りだった僕もその時に左隣に居た人と自然と熱い抱擁を交わし、新時代の幕開けを喜び合った。その人もちょうど一人で来ていて互いに具合がよかったのはどちらにも幸運だった。その人は、このfesのようなelectronic musicというよりも、むしろ良質でdeepなサイケトランスに永く行っているような見た目のかなり高齢の人で、そしてそういった人に共通するすごくいい感じのプラスのバイブスを纏った人だった。隣に居た人が、チャラい大学生みたいなクラバーでもどんな人でもそれは構わなかったけど、普段の年とは違うこの特別な2000年になって一番最初に喋った人が、この人みたいな色々通過してきた感じのプロフェッショナルな感の人で本当にラッキーだったと思った。

ひとしきり抱擁を交わした後、「実は自分はこういった音楽を聴き始めたばっかりで、今色々勉強しているところなんです」と正直な事を告白した僕に対して、Don’t worry だか No problem だかみたいな言葉に続いて彼の口から出たその言葉が、自分にとって生涯忘れられないもの、そして瞬間になった。


“Dance music is the best language of the world.”


全身を衝撃が駆け抜けた。この言葉はこの先も一生忘れる事ないし、この時の記憶はその光景と共に今も全く色褪せる事なく脳裏に刻み込まれている。
2000年の一番最初にこんな言葉を聞けるとは、神様本当にありがとうと自分の人生に心から感謝した。

この事は前に一度だけ公に書いていた記事があったのを、すっかり忘れてたところにたまたま出て来たのでリンクを。
http://www.tokyo-dance-magazine.com/people/raha/050420.html


パーティーにはもちろん最後の最後まで居て、朝の8時に終了。エネルギーを出し尽くした。来て本当によかった。
終わってからようやくはぐれていたBobby達とも遭遇でき、翌日まで取っていたホテルで爆睡(たしか)。fesで全てを出し尽くした後の翌日のLondonへの帰りはもうぐったりしながら帰って来たのはかすかに覚えてる。こうして無事に新時代の幕は開けた。


お正月のLondonの街は、エッという静かさで驚いた。こっちではそうなんだ。。お店も色々閉まってたけど年末のうちにメチャクチャ買い物しといてよかった。PRADAのセットアップからCarhartt, G-Star, 当時履いてたEBISUジーンズも何足も買い溜めてた。後で気付いたけど残念ながらLondonの写真は1枚も残ってなかった。

5日ぐらい過ぎてから最後にアムスへ。ここではクラブへは行かず、ひたすら街を歩いていた。夜になると建物があんな色合いになるのが、もうそれだけで夢の中のようだった。日本ではディズニーランドの中とかにしか有り得ないような色彩が普通に街中に溢れてるのが衝撃だった。あんな現実的じゃない緑の色の建物があるんだと、そしてあんなセクシーな赤い色があるんだと、London以上にショックを受けた。ここヤバイだろうっていうCafe巡りも楽しかった。店内に居たおじさんとの互いに頭の悪い楽しいやり取りも今も鮮明に覚えている。アムスはたしかインスタントカメラ「写るんです」で街並みの灯りのいい感じのも撮ってたはずなんだけどどっかにいってしまってて見つからず、全くたいした事のない写真しか出て来なかったけど一応数点。




1999年末の初めてのヨーロッパはざっと以上だ。まずはヨーロッパでの第一歩を踏み出した。次回は翌年2000年夏の「初めてのIbiza」へと続く。。

https://www.pioneerdj.com/ja-jp/product/software/wedj/dj-app/overview/