ある土曜の夜にVinylという、そのスペースもサウンド・システムも私がこよなく愛しているクラブに行った。装飾は一切なくただ暗くダーティな感じだったけれど、そこにはリアルなアンダーグラウンドを感じる何かがあった。そしてそこで働くジェイ・バイロンという店員と友人になった。その数週間後、ロンドンのthe ARCHESを思い出してVinylで日曜の昼間のパーティを自分自身で出来るのではないか、と思ったんだ。そこで、ジェイが当時のVinylのオーナーであったNick Ditomassoを私に紹介してくれたのが(Body& SOULの)始まりだった。数日後にニックとジェイに会って、日曜の昼間のパーティについての私のプランを説明したんだ。私は、ロンドンのthe ARCHESをベースにしたパーティを行いたかったから、午前10時から午後6時までのパーティにするつもりだった。DJに関しては、ルイ・ヴェガ、デヴィッド・モラレスなどいろんなタイプのDJをジェイに話したんだけど、彼はフランソワ K.にこのプランを話してみることを私に勧めてくれた。1週間後、FKと土曜の夜のVinylの通路で会い、この日曜のパーティについての話し合いを数時間したんだ。最後に彼はそのパーティのレジデントDJとしてプレイすることを引き受けてくれたよ。そして僕たちは、最初のパーティを1996年の7月にスタートさせることを計画した。最初の3回のパーティは、“The MIDAS CLUB”という名前で開催した。4週目(4回目)に、私たちはラリー・レヴァンの誕生日を偲ぶための(この日曜の昼間のパーティで)最初のパーティを開いた。その次の週に、このパーティを“Body & SOUL”に改名したんだ。
最初、私たちはそのパーティを午前10時から午後6時まで、そして数週間後には午前12時から午後8時まで、そのあと午後2時から午後10時までの時間帯に変更していったんだ。そして最終的には、午後4時から深夜までの時間帯に落ち着いた。この3人でDJをするアイディアはフランソワが出したんだけど、すぐにそのスタイルになったわけではなかったんだ。最初の3週間はフランソワが単独でDJプレイをし、そしてある日、彼は友人であるダニー・クリヴィットを一緒にプレイするために招いたんだ。そして、最初のラリー・レヴァンの誕生パーティに、フランソワはダニ、ジョー・クラウゼル、ジョーイ・ラノスを一緒にプレイするために招いた。その週の後、ジョ、 ダニーそしてFKがほとんど毎週日曜に一緒にプレイするようになったんだ。これが、始まり。
ラリーの誕生パーティを行った4週目のパーティの後だね。そのパーティは、私が覚えているなかでもっとも魅力的なパーティだった。そのパーティの前まで集客は少なかったんだけど……その後に突如として口コミでパーティのいい評判が出回り、4年間の間、週を重ねるごとにBody & SOULはその動員数を記録し続けたんだ。
私はBody & SOULがニューヨークのクラブシーンに大きな影響と衝撃を与えたと信じている。Body & SOULが1996年に始まってから、Shelterが4年のブランクを経て復活し、ブロンクスではThe warehouseが始まり、そのほか星の数ほどのイベントがニューヨークに生まれたんだ。また、Body & SOULが大きな注目を集めたことにより、アンダーグラウンドな音楽がより一般層に浸透したと思うね。3人のDJがプレイする幅広い音楽は多くのジャンルを巻き込み、波及していった。Body & SOULはニューヨークにおける音楽的歴史の中にその名前を刻むことになるでしょう。
ほんとにたくさんの印象的なパーティがあったけど、最初のラリーの誕生パーティだね。そして、セントラルパークでの最初のSummerstage partyとジョセリン・ブラウンを招いて行った1周年記念パーティが強く印象に残っている。
私は、アダムが「大好きなパーティだよ!」と語っていた“O-range”のパーティに招かれプレイできることを大変誇りに思っているよ。パーティにおける成功の秘訣は、パーティの主催者とクラブとヴァイブのコンビネーションだと思うね。もしこの3つが揃っているならば、成功は間違いないでしょう。
前に言ったことと重複するけれど、(今回)日本のクラブシーンが私をゲストDJとして招いてくれることに本当に感謝しているよ。多くの人々は私をDJとしてではなく、プロモーター(プロデューサー)として認知しているでしょ? 私はプレイする時には大きなエネルギーをそこに集中させる、そして私のプレイをみんなが楽しんでくれることを望んでいるよ。日本に行くのがとても楽しみだし、私達が「ハウス」と呼ぶものに対して非常に誠実な気持ちで応えてくれる日本のみんなに会うのが今から待切れない気持ちでいっぱいだよ!


