INTERVIEWS
バナーバナー

師は、レジェンドTony Humphries。若きプロデューサーJackoが見るローマのシーン

取材・文:Nagi(Dazzle Drums)

 昨年、初めてADE(注:1)に行った際に、ソウルフルハウスのパーティーに積極的に足を運んだ。ディスコ/ダンスクラシックをルーツにアメリカで生まれたハウスが、現在ヨーロッパでどのようなシーンになっているのかを知りたかったのだ。当然若いアーティストもたくさん育ってはいるが、多くのビッグパーティーやフェスティバルのメインアクトは90年代までに成功したDJ/プロデューサーばかり。海外のレジェンドが招聘され続ける日本のシーンと状況はほとんど変わらなかった。
 
 それは悪く言えば停滞となってしまうが、見方を変えると古き良き時代のクラシックなスタイルのディスコやハウスに対して、造詣が深いとも言える。特にソウルフルハウスのシーンにおいて、DJ/プロデューサー、オーガナイザー、レーベルオーナーには、イタリア人の割合がとても多いというのも感じた。またイタリア製のロータリーミキサー/アイソレーター、NEAはまだ日本では無名だが、ADEでは多くのハウスパーティーで設置されていた。

 今度私たちのパーティーに出演してもらうJackoは面白い存在だ。今ではローマ/イタリアの若手ハウスDJ/クリエイターを代表する存在だが、ニューヨーク(細かくいうとニュージャージー)のハウスシーンにおけるレジェンド、Tony Humphriesの愛弟子でもある。ディスコ/クラシックもかけられるし、最新のハウス、R&B、ヒップホップ、トラップまでプレイする。過去への造詣も深いが、新しいものへの貪欲な探究心もある。そんな彼に私はシンパシーを感じたのだ。
 
 昨年、Jackoとローマの空港から街に向かう車の中で、ハウスではなく、ずっと最新のR&Bやヒップホップを流しながら、この曲をハウスミックスしたい、このアーティストがいま一番面白い、と目を輝かせて話していたのが意外で印象的だった。Tonyのもとで90年代ハウスの黄金期も知り尽くしている彼が、ある意味保守とも言えるローマという場所で、どんな意思で活動を続けているのか、とても興味が湧いた。冒頭にも言ったようにローマのシーンは日本に似ているからだ。ソウルフルハウスに新しいシーンは生まれるのか? それとも、過去の完成されたスタイルのまま停滞し続ける、もしくはそのまま守られ引き継がれるのか? 

 
注1:オランダ・アムステルダムで開催されている都市型フェス。期間中は、世界中からさまざまなジャンルのトップDJや関係者が集い、クラブから、カフェ、歴史的な建築物、屋外会場などで、エレクトロニック・ミュージックに焦点を当てたパーティー、ワークショップ、国際会議等の交流が交わされる。
 


 
DJへの目覚め。伝説のカセットテープの存在

——まずは、あなたが03年ニューヨークに移り住み、Tony Humphriesのもとで働く以前のことから教えてください。幼いころの生活環境や音楽遍歴などパーソナルな部分を。

僕はローマで生まれ育ったんだ。父親は、仕事で世界中を旅していて、よく旅先からレコードを持って帰ってきてくれたよ。それもあって7歳からレコードを聴き始めた。
 
——ではDJを始めたのはいつですか?
 
15〜16歳くらいからかな。同時に、音楽を買うことに強い関心を持つようになったんだ。当時買っていたアルバムはPublic Enemy、Eric B&Rakim、Run DMC、Michael Jackson、Whitney Houstonとかヒップホップ、R&Bだね。
 
——ハウスミュージックに夢中になったきっかけは?
 
Tony HumphriesがニューヨークのKiss FMで披露したミックスショーが録音された伝説のカセットテープを聴いたんだ。選曲、フロー、オーバーレイ、ミキシングのスタイル、全てが僕にとって新しい経験だっだ。僕はそのテープで聴いた曲を全部プレイしたいって思うようになったんだよ。
 
——初めて出演したパーティーのことは覚えてますか?
 
街の外れにある城で行われたプライベートパーティーだった。僕が選曲した音楽でみんなを踊らせている…そんな感覚が僕をDJになりたいっていう気持ちにさせたんだ。もっともっとDJをしてみんなを踊らせたい、ってね。きちんとしたキャリアのスタートはローマのクラブDJとして。幸運にも有名なクラブでレジデントを持てたし、あるラジオ番組では10年間続けさせてもらったんだ。



Tony Humphriesとのニューヨーク生活を経ての帰国

——それからTony Humphriesと出会ってニュージャージーに行くわけですね。その経緯も教えてください。
 

あるとき、今僕が所属している会社のオーナーMaurizio Clemente(注2)がTonyを個人的に紹介してくれたんだ。
 
Tonyのギグがイタリアであると、いつも聴きに行っていたから、僕のことをよく見かけてたと思うんだよね(笑)。そんな経緯もあってか、すぐにフレンドシップを築くことができたよ。Tonyがプレイしている途中で休憩に行くときは、何曲かレコードを掛けさせてもらったりもしたしね。
 
そのあと、初めてWMC(注3)のためにマイアミに行く際にニューヨークにも立ち寄って、Tonyの家やスタジオを訪ねたんだ。招待してくれたんだよ! 僕の人生において信じられない出来事だったよ!それから一緒に仕事をするようになって、2003年、ニュージャージー州East OrangeのオフィスでTony Recordsを一緒に設立したんだ。
 
注2:Tony HumphriesやJacko、Kerri Chandlerなどのブッキング・マネジメント会社 KNMのオーナー。Tim Lawrence 『Love saves the day』などシーンを知る上での重要書の伊語翻訳を担当するなど、イタリアのハウスシーンに創世記当時から貢献する人物。
 

注3:Winter Music Conference。85年に設立され、毎年3月にマイアミにおいて開催されるカンファレンス。世界中のエレクトロ・ミュージック業界関係者が集まり、会合、情報交換、そして回りきれないほどのパーティが行われる。

——ニューヨークでの生活はレーベル運営が中心でしたか?
 
もちろんDJもしたし、クラブにもたくさん行ったよ。Tonyがプレイする時にはいつも同行していた。とくにTonyが木曜夜にレジデントDJだったマンハッタンのDiscothequeでは、何回かDJするチャンスももらったんだ。TonyがNina SimoneやBilly Holidayのリミックスを制作した時のスタジオセッションにも参加したりね。

——08年に自身の最初のリリースをした同時期に、ニューヨークからローマに戻ったんですよね?

あのころからほとんどのギグやDJツアーはアメリカよりもイタリアやヨーロッパで開催されていたから、ローマに拠点を置くことが自分にとっても良いと判断したんだ。ニューヨークではたくさんの音楽ビジネスのノウハウとDJスキルを身に付けることができた。素晴らしい4年間を過ごすことができて、Tonyには本当に感謝しているよ。

 

TraxsourceでNo,1を獲得した「Closer」。Jackoは、ボーカルのChelsea Comoと一緒に2月16日(金)に渋谷Contactで開催されるパーティー「Music Of Many Colours」出演する。


ニューヨークとローマ、過去と現在。それぞれのハウスシーン

——ニューヨークとローマ/イタリアのハウスシーンを実際に体験しているあなたから見て、この2つの街のシーンはどのように違うと思いますか?

一般的にみて音楽やダンスについて深くて根強い文化がニューヨークにはあると言える。とくにソウル、R&B、ヒップホップ、ゴスペル、そしてハウスなどのジャンルはそうだよね。ニューヨークでは人が音楽に触れて踊るときの感覚が、イタリアやローマに比べてもっとエモーショナルなものだと思う。クラブシーンについてはローマそしてイタリアにも長い歴史があるけれど、ナポリ以外ではダンスは文化として定着していないと思うな。あと、90年代を知っているハウスが好きな世代と、新世代のクラブの観客たちの間にはギャップがあるということは言っておきたい。
 
——アメリカで生まれたソウルフルハウスは、現在も多くのリスナーに愛されていますが、シーンの中心にいるのは当時から活躍するレジェンドDJが多く、DJも客層も一緒に歳を取ってきたような印象があります。もちろん、若い世代のリスナーも遊びに来てはいますが、90〜00年代頭までの世界観でシーンが止まっていて、世代交代も行われていない…そんなように私は感じますが、あなたはどう思いますか?   

同感だよ。伝説的なプロデューサーやDJ、そして数え切れないほどのプロダクション、それらは多くの影響を与えてくれたけど、問題は、彼らとのあとに大きなギャップができてしまったことだよね。DJからDJの世代の間、そしてクラバーの世代と新世代のクラバーとの間にもできたギャップ。先駆者から次の世代にシーンを繋いでいくはずが、若い世代に支持される次の世代のDJやプロデューサーがいなかったんだよね。2000年の初め頃からハウスミュージックシーンは成長に苦しんだし、最終的に若い世代にとってはハウス以外のジャンルがもっとポピュラーで人気になってきたと思う。

——あなたと一緒にローマを歩きながら「若い世代に向けて音楽を表現したい」という話をしたのを覚えていますか?

ああ、その会話は確かに覚えてるよ! もちろん僕はDJ、そしてプロデューサーとして、若い世代と音楽表現を通じてコミュニケーションを取りたいと考えてるし、いつだって音楽的に最先端でありたいんだ。だから、それはハウスミュージックじゃなくてもいいんだよ。いつもR&Bやヒップホップのチャートをチェックしているしね。
 
——では、目の前にハウスだけにとらわれない、ダンスミュージックを愛する若い世代が集まっていたとしたら、あなたはどんなDJプレイをしたいですか?

アフロハウス、ヒップホップ、トラップなど最先端のダンスミュージックを掛けたい。もちろん、僕の歴史でありルーツであるハウス、R&B、クラシックスもね。僕は自分のルーツと経験に正直でいたいし、若い人たちがまだ聴いていないかもしれない音楽を、DJを通じて教えていきたいんだ。
 
そうそう、ローマの新しいクラブGUSで新しいパーティーを始めたんだ。
 
——それはどんな?

ディープハウス、ハウス、アフロハウスからトラップやヒップホップまでプレイすることがコンセプト。新しいクラバーにとって、奇怪なシカゴハウスから新しいトラップサウンドまで何でも聴くことができるパーティーだよ。ロンドンやアムステルダムのような都市で今起こっている雰囲気だね。イタリアの新しい世代のクラブヘッズは1つのジャンルに限定されていないパーティーを求めているから、僕たちはそんな世代と一緒に、ファッションや音楽に取り組む国際的で多様な若者を集めたいんだ。いまのローマにおいて、新しいシーンを構築することが僕たちに求められている。それに、これからの音楽と新しい世代に目を向けるべきだと、僕は常に考えているよ。

 

 

 複数のジャンルを組み込める包容力、時代の違う音楽も共存できる柔軟性を兼ね備えた「ハウスミュージック」は、世界の変化と同時進行で刷新するからこそ、魅力を保ち続ける。だからこそ、誰もが知っているようなレジェンドに頼らないパーティーが必要だと、ずっと考えていた。私たちDazzle Drumsは同じ意識をもつ仲間と共に「Music Of Many Colours」を昨年から始めた。その後、ローマ、ADEに行き、東京と同じように停滞するソウルフルハウスのシーンを実際に目にして、もっと強い意思でパーティーを作らなくてはと考えるようになった。著名DJを観に人が集まる従来の形ではなく、より有機的なダンスフロアを実現し、新しい世代に発信するということ。その重要性を理解するJackoと共に、2月16日、3回目のMusic Of Many Coloursを開催する。東京のハウスシーンの新しい挑戦を、一人でも多く体験してもらえたらと願って。
 
https://www.pioneerdj.com/ja-jp/landing/ddj-wego4-and-wedj/