INTERVIEWS
< >

Osamu M

小学校4、5年の頃、兄二人がセックス・ピストルズやラモーンズを聴いていたのがきっかけで、パンクにはまったんだ。当時から海外の音楽を聴いていたし、日本でもインディーズ時代のラフィンノーズ、ブルーハーツやBOOWYなんかを聴いていて、小学生ながらバンドに憧れる少年だった。それ以降もジャーマンメタルや、ボンジョビやミスタービッグなんかありとあらゆるCD買いあさってたんけど、高校生のある日、カート・コバーンに出会って、ものすごい衝撃を受けたんだよね! 音楽性や音楽へ自分のスタンスを重視するようになったのもカートのおかげだね。そんなこんなで、バンドを結成したんだけど、バンドって他のメンバーみんなとバランスを取って成立するものでしょ?でも僕は自分の考えをどうしても押し通したい人間だったから、当時の僕にはそれが難しかったんだよね。そんなときに、タイミングよくDJっていうカルチャーに出会ったんだ。 バンドでニルヴァーナみたいなサウンドを演奏しながらクラブにも行くようになったんだ。初めてクラブに行ったきっかけは友達に誘われて行ったんだけど音楽を聴きに行くというよりは、パーティーの雰囲気を楽しみに通ってた感じだったね。次第にクラブでかかっていたエイト・オー・エイト・ステイト<808state>、イート・スタティック<eat static>やジャム・アンド・スプーン<JAM&SPOON>のようなテクノサウンドにも興味が湧いていったんだ。それで西麻布の YELLOWに頻繁に遊びに行くようになって。そこでは当時、デフ・ミックス<DEF MIX>系のピアノ主体のハウスが流行っていたんだけど、ある日いつものように普通にクラブに行ったら、スピーカーから流れている音がそれまで聴いたことがないサウンドだったんだよね。暗黒サウンドなんだけど明るい光が見えてくるような感じの音。聴いているだけでDJが表現したいことがすごく伝わってきたんだ。それを体験するまでは、ずっと明るい曲調を続けるDJを聴いてきたから、まさに衝撃的で全く新しい世界観を発見したんだ。その時は誰がDJしているかなんてまったく知らなかったんだけど、後にそのDJがダニー・テナグリアだって知って、「俺もこんなDJになりたい!」と思った。ターンテーブルは1台だけ持ってたんだけど、すぐにもう1台のターンテーブルとミキサーを買ってDJを始めたんだ。 DJを始めた頃は、パー券を売るような、いわゆる学生パーティーみたいな場所でプレイしていて、HIP HOP やテクノのDJたちと一緒にハウスをかけてた。そのほかにも原宿のGLASSを借りてパーティーをやったり、友達が渋谷BALLでやっていた小さなパーティーにゲストで呼んでもらったりして、ちょくちょくDJをやるようになってたね。それで、たまたまなんだけど、僕がバイトしていたお店の店長がマニアックラブの店長の和田さんと知り合いで、デモ・テープを聴いてもらうチャンスがあって。和田さんからMINORU NISHIKAWAさんが西麻布のVIVIANで、若手DJを探してるっていう話をもらってVIVIANで毎月DJをするようになったんだ。わざわざ MINORUさんがBALLまで僕のDJを聴きに来てくれて、「うちのクラブでDJをやってみないか」って話をしてくれて、アフターアワーズだったり土曜日にDJできる環境ができたんだ。それからはどんどんDJする機会が多くなってきて、自分の人生を本気で「DJ」にかけたいと思うようになってきた。そうこうしてるうちに今度は、マニアックラブの和田さんから、「うちでアルバイトしながら、毎月1回木曜日にパーティーをやってみなよ」って話をタイミングよくもらったんだ。それがきっかけで大学を中退したんだけど、これは自分にとって今までで一番大きな決断だったかなって思う。プロとしてDJをやっていくには、学生はまずありえないと思ってたし、卒業してからでも遅くはないけれど、自分で「ここだ!」って思ったタイミングを逃したくなかったんだ。大学を辞めたことで、親と半年ぐらい揉めたりもしたけど、マニアックラブでアルバイトをしながら、レギュラーパーティーをもてるようになったんだ。 マニアックラブで「オペラハウス」っていうパーティーをやり始めたんだ。このパーティーでは、スタートから終わりまで1人でDJをしていて、もともとダニー・テナグリアに惹かれてDJを始めたから、ニューヨーク・スタイルの「ALL NIGHT LONG」(オープンからクローズまで、一人でプレイする)っていうDJスタイルに興味があった。だからこのパーティーは自分にとって最高のステージだったんだ。DJを始めてから常に自分の音を探し続けていたんだけれど、音楽性に関してはそれほど広い範囲まで見えてなかったのは確かにあったね。憧れているダニー・テナグリアやジュニア・バスケス、ヘックス・ヘクターだったり、そういうニューヨークのDJがプレイするラジオ番組をチェックしつつ、その番組でプレイされたかっこいい曲を探して買っていたね。海賊版のミックステープを聴いたりして、どんなプレイをしているかについてかなり研究していたよ。そのテープは1本1000円もして高かったんだけど(笑)。 マニアックラブでDJを始めたころは、ジュニア・バスケスやダニー・テナグリアといったニューヨーク・ハードハウスのスタイルが全盛だったから、自分もそういったスタイルでDJをやっていくと、どうしてもニューヨークのサウンドにしか目が向いていなかったところがあった。でも、日本にも徐々にヨーロッパの情報が入ってくるようになってきてから、色んなサウンドがあることを知って、サシャとジョン・ディグウィードという2人のDJの存在が気になるようになった。彼らがやっているいわゆるヨーロッパサウンドを知ってくると、だんだん自分のサウンドが、今でいうプログレッシブ・ハウスに変わってきた。ロングセットのスタイルは変えなかったけど、あまりにも自分のサウンドがプログレッシブ・ハウスよりに変わってきちゃったから、パーティー名を「ZONE」っていう名前に変えたんだ。そしたら、和田さんが「海外のプログレッシブ・ハウスの有名なDJをブッキングして、週末の新しいパーティーをやってみない?」って言ってくれて、2001年4月から新しいパーティーを始めたんだ。パーティー名を「SUBMERGE」に変えてスタートしたんだ。オープニング・パーティーにはスティーブ・ローラーを招聘し、その後も、ゲストDJを迎えてやっていったんだ。 SUBMERGEが始まった前後に、ジョン・ディグウィードが来日したんだ。その時はすでに、自分が表現したいと思う音楽のトップにいるのがジョン・ディグウィードだと思っていたし、彼が来日したときに彼と話す機会があって、自分の楽曲とミックスCDを渡したんだ。正直、ジョンに会ったときはめちゃめちゃ緊張しまくったのを覚えてるよ(笑)。SUBMERGEが始まって、2001年の10月に自分の新しい楽曲とミックスCDを持って、プロモーションのために1ヶ月ぐらいイギリスへ行ったんだ。毎週毎週、何ヶ所もいろんなクラブをまわって、アンソニー・パッパやいろんな有名DJたちに会って自分のCDを渡したんだ。ジョン・ディグウィードがやってるパーティーのベッドロック<BEDROCK>にも行ったんだけど、行く前に「CD持って遊びに行くよ。」って感じでジョンに連絡してみたら、ジョンがゲストを取ってくれいて、彼に会って直接ミックスCDと楽曲を渡して日本に帰ってきた。そしたら、なんと1ヶ月後ぐらいに、ジョンからメールが来たんだよね!「ミックス CDを聴いたよ。内容が良かったから、僕のやってるKISS FMっていう番組に出てよ!そのための新しい60分のミックスを送ってほしい。」って。正直「え!!」って感じだったよ。だってこっちとしては全然期待してなかったし、メールが来たときはちょっと信じられなかったね。メールを受け取ったその次の日に、マニアックラブでレコーディングしてすぐにジョンに郵送したんだ。ジョンからオファーがきて、もう3日後には彼の手元にミックスが届いていたんじゃないかな。そのミックスは2002年の1月にオンエアされたんだけど、これが僕のDJ人生にとってかなり大きなポイントになっていると思う。ジョンは真剣に音源を聴いてくれて、よく認めてくれたと思う。で、イギリスに行く前に、ある程度どんなサウンドが流行ってるのかは予想できていた。ニック・ウォレン、ダレン・エマーソンやアンソニー・パッパなどいろいろなDJのパーティーに行ったけど、いわゆるキャッチーなプログレッシブ・ハウスが主流だった。でも当時の僕は、それとは違うサウンドをプレイしていて、日本で僕のプレイを聴いた人たちから「なんでこんな音やってるの?」みたいなことも言われたりした。でも、ベッドロックのダンスフロアを体験してみて「ああ、これは俺がやっている音だ!」って自分のサウンドやスタンスが確信に変わったんだ。そう思って日本に帰ったときには、誰に何を言われようが自分のスタンスを崩さないで大丈夫だなと思ったよ。自分のやっていることが自身から確信に変わったんだ。 何度か海外ツアーをやってるんだけど、初めての海外でプレイしたのは中国だね。上海3カ所と杭州を2週間ツアーしたんだ。世界の各都市からDJを呼ぶようなパーティーで東京代表として呼ばれたんだ。それは嬉しかったね。あとは、スイスのローザンヌ、アメリカはシアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、あとはルーマニア。今度4月23日にはインドネシアのジャカルタでのDJが控えてるところなんだ。海外に行って思うのが、日本と海外のお客さんの一番の違いは、「真剣さ」だね。それは、音楽に真剣に向き合うとかじゃなくて、真剣に遊んでるってことなんだけど、ほら、日本人って、遊んでるときも何か考えてるし、仕事してても遊びのこと考えてるようなところがあって、オンとオフのチャンネルの切り替えがうまくいってないって印象なんだ。だけど海外の人は、遊ぶと決めたらとことん遊ぶからね。音がわかっているコアな人もいるけど、全体的なテンションが違うから、お客さんから感じるエネルギーが、あまりにも違うと思うことがあるね。印象に残ってるパーティーは、ロサンゼルスのパーティーでのアフターパーティーで、パーティー自体は、「TOKYO NIGHT」っていうアジア人ばかりが集まるちょっとチージーなノリのパーティーだった。ちゃんと音を聴いてくれた人も、もちろんいたんだけど、突然ブースに上ってきた女の子に「トランスかけろ!」とか言われたりして・・・。で、すごかったのは、その後なんだ。アフターアワーズをやろうってことで、プロモーターの知り合いの場所で数人のためにDJして、夜8時ぐらいまで10時間ぐらいぶっ続けのプレイで完璧なセットができたんだ。僕を呼んでくれたプロモーターなんて「オサムはロスを破壊した!」って感激してくれたんだ。中国のDJツアーを含め、他の海外のオファーが来たのも、KISS FMがオンエアされた後だったし、KISS FMの影響力の大きさを感じるよ。ここ数年は毎年マイアミに行ってるんだけど、毎年自分のことを知っている人が増えてるのを実感しているね。今年マイアミに行ったときも、「OSAMU Mだろ? KISS FMよかったよ!」なんて何人も話しかけられたし、話しかけてきたカップルに「この後ロスでDJするよー。遊びに来てね」って言ったら、ロサンゼルスのパーティーにもそのカップルが来てくれて本当に嬉しかったね。 音楽制作は、かなり前から始めてたよ。ダニー・テナグリアを目指した時点で、自分でも曲を作らないと、世界のトップアーティストになれないということには気づいていたし、曲作りが絶対必要だということが頭の中にずっとあったんだ。ただ、誰に教わったらいいのかわからなくて、あるきっかけでMARAWI ROCKSのTARO KAWAUCHIさんに弟子入りみたいな形で付かせてもらったんだ。当時、日本でDJをしていて、自分が目指しているスタイルに一番近くて、かつ曲も作れる人が、TARO KAWAUCHIさんだったんだ。ちょうど彼が毎週金曜日にマニアックラブでDJしてたから、店長の和田さんを通じて紹介してもらって、金曜日に荷物持ちやイベントの照明をやって、その代わりに彼の身の回りのものを見せてもらってたんだ。EMMAさんやTAROさんがやっているMALAWI ROCKSのスタジオに通うようになってからだから、もう8年ぐらいは曲を作っているのかな。バンドとかを初めて、音楽には目覚めていたけど、音楽の勉強は何もしていなかった。それは今でも一緒で、ずっとフィーリングを大事にやってきているよ。何かを仕込んだりってことはなく、曲作りも事前に「こうしよう、ああしよう」と考えることもなく、ゼロからその時のフィーリングだけで作っていく感じなんだ。あと、トラックの制作は、自分のDJでかけるために作ってる。だから、他のDJも僕の曲は使いやすいんじゃないかな。やっぱり、DJやるからには世界のトップを目指さないとつまらないと思うんだ。だって、そう思うでしょ? 例えば、イチローや中田なんかもきっと同じなんじゃないかなと思うし、常に世界のトップを目指しているからこそ、彼らはあそこまでのプレイができると思うんだ。 今後の予定としては、まず、ベッドロックからもリリースしてるアーティスト、LUKE FAIRを呼んで5月3日にUNITで開催するSUBMEGEは楽しみだね。「SUBMERGE」は、自分のやりたいことをやるためのパーティーだから、絶対に自分がいいと思っているアーティストしかゲストは呼ばないし、ゲストを呼ばずに一人でやってみたりとかもするし、とにかく自分のコンセプトでできる、自分のパーティーでしか付けない名前なんだ。来年からレーベルを始めようとも思っていて、そのレーベルの名前はSUBMERGEとは違うものにしようと思ってるよ。今の時点でも、そのレーベル用に秘蔵の曲を何曲かストックしてあったりするよ。ただ、レーベルを始めると言っても、自分のプレイはほぼCD だけだし、今はこれだけインターネットが普及してるから、いろいろと考えることが多い。例えば、最近は海外のアーティストたちと未発表のトラックを交換する機会も増えてきたんだけど、その時はCD-Rだったり、データだったり、あと最近は、ダウンロードで曲を買うことも多いんだよね。だけど、自分でもレコード屋を回って曲をチェックすることは止められないし、それを止めたら終わりだと思う。やっぱりレコードは出して行きたいと思っているよ。レーベルをやることで、自分がジョン・ディグウィードにしてもらったように他のアーティストをサポートしたいと思っていて、それは日本人でも海外のアーティストでも努力してる人がいたらサポートしていきたいと思っている。今、僕のまわりには、価値観を共有できる仲間やサポーターがいて、彼らと一緒にレーベルを始動できればいいなと思っているよ。 うーん、難しいなあ。レディオヘッドに、カート・コバーンも捨てがたいけど、やっぱりコレ! Underground Sound Of Lisbonの“SO GET UP”。初めて、ダニー・テナグリアを聴いたときにかかっていた一枚で、その後レコード屋を探索して買った1枚。