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DJ EMMA

 DJ EMMAの活動30周年を記念した本インタビュー。前編(http://www.clubberia.com/ja/interviews/750-DJ-EMMA/)では30周年記念パーティーを振り返ってもらったが、後編ではデビューから現在まで30年の歴史を話してもらった。「ハウスの洗礼は僕のDJ人生で一番大きかった」と語るDJ EMMA。音楽、人、クラブ/ディスコ…さまざまな出会いや出来事の中をDJ EMMAがどう歩んできたのだろうか?

取材・文:yanma(clubberia)
インタビュー撮影:難波里美(clubberia)、JAMANDFIX(REALROCKDESIGN)

 

 

 
嫌だったんですよ、全部ニューヨークだったのが…
 

 

 

――EMMAさんがDJを始めたのはいつですか?
1985年のクリスマスパーティーでした。バンドもやりながら最初の3年は遊びの延長みたいなかんじで、特に目的もなく。
 

 

 

――実家が宮城県でしたよね? DJは上京してきてからですか?
そうですね。兄が東京に住んでいたので、週末になるとツバキハウス行って、断られながらも無理やり入れてもらって(笑)。自ら始めたというよりは、ツバキに行くようになってから、知り合いにDJを頼まれるようになったんです。レコードを持っているからという理由で。
 

 

 

――初めての東京のクラブ体験がツバキハウスだったんですか?
最初に行ったのは新宿のニューヨークニューヨークかもしれないですね。その頃は新宿歌舞伎町に大型ディスコが5軒くらいあって、ツバキハウスは、ちょっと外れた花園神社の目の前のビルにありました。新宿LOFTで友達になった人に連れて行かれたのが最初です。いきなりVIPルームに案内された時は意味がわからなかったですが、すぐにVIPから出て踊ってましたね。ツバキハウスはロックが中心な日が多かったけど、ライブハウスみたいにみんなが同じ方向を向いているわけでなく、しゃべったり、好きな曲がかかったらフロアに行ったり。自由だなと。
 

 

 

――ツバキハウスで有名なのが「ロンドンナイト」ですよね?
そうですね。ロンドンナイトが1番好きでした。でもハードロックも好きだったんで「ヘヴィメタルナイト」にも行ってたし、ニューウェイブも好きだから金曜日にも。結局、働くことになるんですが、ツバキ全部が好きでしたね。自分が子供だったのもあるけど、おしゃれな大人たちばかりで憧れました。
 

 

 

――DJをし始めた時はどんな音楽をかけてたんですか?
本当に最初はスタイルも何もない、ロック、ニューウェーブからディスコいってレゲエまで、それで2時間とか。その後は4つ打ちになり始めているけどハウスでもない、なんだかよく分からないものもベルギー、ドイツ、シカゴから出てきていた時だったので、そういった音。ニュービートやエレクトロ・ボディ・ミュージックと呼ばれていたものなどもあります。1989年になるとGOLDがオープンするんですが、その前に東京の一部でも少しだけアシッドハウスブームみたいな盛り上がりもありました。東京に関しては、ハウスの登場とアシッドハウスブームは一緒にきていたのかもしれないですね。また、ロンドンに行ってみると、その4つ打ちからレイブが始まった瞬間や、その後それがドラムンベースに変わる瞬間をなぜか体験してるんですね。今思うと、ラッキーだったと思います。
 

 

 

――どれくらいの期間滞在していたんですか?
ロンドンは4ヶ月、何度か行ってますね。イタリアも3ヶ月くらいいましたね。
 

 

 

――当時、日本はニューヨークに向いていたと思うのです、ヨーロッパを体験したのはかなり貴重だったのではないですか?
特にハウスの場合、海外に視野を広げると真っ先にニューヨークが浮かぶほど、選択肢は限られていたと思います。それは圧倒的にニューヨークのシーンが大きかったからたでしょう。おそらくヨーロッパでDJをしたのは僕が最初の1人だと思いますが、遊びに行くという感覚でしたから。貴重な経験をしたことはよかったとは思いますが…。嫌だったんですよ、全部ニューヨークだったのが…。60年代から始まる日本のディスコの音楽的な歴史って、ニューヨークの影響が強過ぎてDJとしても不自由に感じてました。ほんの少しだけイタリアやスペインのディスコティックで、誰もシカゴの箱を真似しようとは思わないですよね、それは文化的なのかなぁとか…。僕らぐらいの世代になると、ハウスは黄金期でニューヨークスタイルがほとんどでした。僕がニューヨーク50%みたいなスタイルになったのは、人と同じことが極端に好きではなかったからです。
 

 

 

――そうなんですね。
それにハウスとテクノの境界線をもともと持っていなかったのは大きいと思う。テクノシーンに興味はあまり持てなかったけど、どうしてもプレイしたい曲がたくさんあったんです。それと、他の国のスタイルを真似した事がないですね。ロックも普通にかけてたし。
 

 

 

――それは最初からだったんですか?
最初からです。オリジナリティのあるスタイルを、どうやったら生み出せるのかを考えてました。だから、評判のいいDJを聴きに行きたい、良いパーティーを体験したいという欲求があって、満遍なく海外のシーンを見ようという発想になる。イビサに行ったのもそういう理由だし、そうした経験をしたのも今の肥やしになってるはず。誰も見てないことを見るというのもやっぱり大切ですから。
 

 

 

――イビサの印象はいかがでしたか?
よかったですよ。ただ、感動するほどではなかった。いいなって思ったのは、ここの音楽のスタイルがあると思ったこと。こういう事なんじゃないかと感じました。当時のイビサは海外のパーティーがたくさんあった訳ではなかったし、ニューヨーク、ロンドンの真似をしてるわけでもなかった。それがベースになっているから、たくさんの人が世界中から来てるのだと思います。今のイビサは個性が薄れた部分と過度になった部分がありますね。
 

 

 

――ニューヨークには行きましたか?
イビサやロンドンよりも圧倒的にニューヨークの方が好きでした。ただ、ニューヨークしか知らないよりは、いろんな土地でいろんなDJの音楽を聴いた方が面白いと、僕はひとつに固執しないようにしていた。ニューヨークしか知らないでニューヨークにハマってニューヨークから出られなくなるのは…それはもったいないと思ってましたから。
 

 

 

――当時ヨーロッパでDJしようと思ったら……どうやったらできるんですか?
その時はコニーっていうオーガナイザーがいて、彼女が僕を売り出そうとしてくれていたんです。デモテープをあらゆるところに送ってくれたし、招聘したDJたちとの関係性を築けたからですね。彼らが「呼びたい」っていうようになって、プレイして、それを聴いた人がまた呼んでくれる。ひとつひとつ決まっていった感じ。そこは今と変わらないのかもしれない。
 

 

 

 
「お前の音楽は何て言っていいかわかんねえ」
そこから「EMMA HOUSE」が生まれた
 

 

 

――その後に今や伝説と言われる芝浦GOLDがオープンしますが、振り返って思うことはありますか?
すげぇ、ついにできたかと思いました。 
 

 

 

――それはなぜですか?
ツバキハウス、玉椿、Tokio、六本木トゥーリアといったディスコとクラブの中間的な箱を経過して、ピカソ、トゥールズバー、それからアナザーワールド等の小箱のクラブと、渋谷や六本木のいわゆるディスコの時代。妥協のないニューヨークスタイルの大箱をベイエリアの倉庫街に作ったっていうのが衝撃的でした。しかも7階建ての。それまではサウンドシステムがすごいからといってクラブに足を運ぶような事はなかったと思います。立地に関しても常識的ではないですから、すべてが新しかった。遊び方そのものを変えたとも言える。
 

 

 

――全部クラブだったんですか?
1階がエントランスでコインロッカーがあって、2階はバーとフードエリアにセカンドフロア。3〜4階が吹き抜けのメインフロア。5階が「LOVE&SEX」。6階は会員制クラブ「吉原」。7階は事務所でした。各フロアの個性が強くて1日いても飽きなかった。他に何もいらないくらい。今でもクラブにコンセプトを求めてしまうのは、GOLDの影響です。
 

 

 

――GOLDはなんでクローズしたんですか?
契約ですよ。レンタルの問題がなかったら全然続けていけたと思いますけど、でもあれはあれでよかったと思います。クラブは長生きしてても仕方がないと僕は思ってますから。
 

 

 

――その理由はなんなんですか?
短期間で爆発するクラブの方が好みというのもあるし、長さではなくて人の心に残るパーティーの濃さ。強烈さ。それを追求するなら。カルチャーってそういうものじゃないですか? ファッションも3、4年経つと着れなくなる。それに近い感覚です。もちろん一生モノとかもありますけど。オープン当初の志のまま10年以上継続することはかなり難しいと思う。音楽性を売りにするクラブの多くが、当初の目的とは違う方向にシフトしていくのを見るたび考えてしまいます。色の違い過ぎるコンテンツの並びによる違和感も現状を駄目にしてる。システムありきじゃなくて音楽ありきにしないと。箱の名前で音が浮かぶような…。テクノ専門店、ハウス専門店、レゲエ専門店とか、専門店がほしいですね。それならすごく説得力があるし、音楽以外で集客しようなんて発想にはならない。居心地のいい場所になるんじゃないかなっていう気もするんですよね。で、それが新陳代謝を繰り返していけば、シーンは成熟していく。
 

 

 

――それから1991年にSpace Lab Yellowもオープンしますよね。
Yellowがオープンした当初は、GOLDの木曜日と両立しながら月1ペースでDJをしていました。Yellowができた事で良い意味でクラブブームに拍車がかかった。定期的に海外DJを招聘していた「WORLD CONNECTION」の威力もすごくて、この時期、都内にGOLDもYellowも存在していた訳だから、もしかして東京すごいかもと思えた時期だったかもしれない。僕は他にも、乃木坂のdeep、下北沢のZOOやコニーがオーガナイズする「コニーズ・パーティー」のDJでもあり、この頃が1番忙しくしてたかもしれない。その後はGOLD一本にして毎週土曜日を担当することになるんですが。
 

 

 

――DJは1人で?
早い時間に1人いましたけど、23時半くらいから最後までプレイしていました。終電で帰る人たちを楽しませてから、もう一回。そこから朝まで遊ぶお客さんもいますが、5時で終わってアフター行ってくださいと。アフターアワーズのパーティーもどんどん増えてきた時でしたし、あんまりズルズルやっても仕方がないと思っていて、どこか次に遊びに行ってほしかった。毎週の事だから。
 

 

 

――GOLDでのパーティータイトルは「EMMA HOUSE」だったんですか?
全体のパーティー名は「It’s World」でしたけどメインフロアだけ「EMMA HOUSE」でした。高橋征爾(GOLDスタッフ/ageHaを立ち上げたプロデューサー)がつけたのかな? その当時はニューヨークスタイルとかジャーマンテクノとか、そういう時代でしたから、まあ気持ちはわかるけど…。彼が突然「お前の音楽は何て言っていいかわかんねえ」って。だからお前は「EMMA HOUSE」って。「それって正しくは“EMMA’S HOUSE”なんじゃないの?」とかいろいろ言ったんですけど(笑)。誤解から生まれて、そのまま使い続けてる。
 

 

 

――ミックスCDシリーズ『EMMA HOUSE』を作るきっかけは何ですか?
あれはGOLDが終わる時ですね。現在Eneを主催してるChida君がその頃エイベックスにいて、彼らが企画してくれたんだと記憶しています。その頃のエイベックスって、たくさんのニューヨークやシカゴのレーベルと契約していたし、本腰でクラブミュージックに力を入れようとしていた時だった事もあったと思います。1枚目は様子見だったと思うけど、2枚目が売れて3枚目、4枚目はオリコンチャートに入るという…そこからシリーズ化していったんですね。
 

 

 

――オリコンの何位くらいとか覚えてますか?
10位以内に入ってたのかな? だから取材が来たんだと思うんだけど。詳しくは分からない。
 

 

 

――1990年代後半のオリコンって十万枚、百万枚の売上があるCDがランクインしていた、CD最盛期でしたよね。
インタビュアーの方がわかってない時もありました。これ僕の曲じゃないんですって言ってるのに(笑)。「これはリミックスと言いまして」とか、一個一個説明しないといけない。
 

 

 

――私は「EMMA HOUSE 8」くらいから聴き始めましたが、個人的に「EMMA HOUSE10」が好きだったんです。今でいう「EMMA HOUSE」を代表するような曲が集中しているように思うんです。
1枚はアンミックス、1枚はDJミックスのCDですね。曲を紹介するのとはまた別で、自身のヒット曲を作るっていうのもDJには必要だと思っています。それは大貫(憲章)さんを見ていて痛感してました。大貫さんがヒットさせた曲ってたくさんあると思うんですが、それってすごいことだと思うんですよね。そしてそれは何年もプレイしたってカッコイイ。昔流行った曲だからといって終わりにしてしまうのは、もったいない。クラシックを自分で作るんだっていう感覚は面白いと思う。逆に、ロフトクラシックスさえかけてれば安心と思っていたり、流行ってるからテクノDJだって言って安心していたりすることが1番つまらない。ずっとそういう風に思っています。
 

 

 

――じゃあ、「EMMA HOUSE 10」リリース当時「Sweetest Day Of May」は流行りが終わったあとだったんせすか?
そうですね、リリースは1995年の曲だから。
「EMMA HOUSE 10」は2004年の作品なので、ずっと引っ張っていったていうことです。ちなみに、東芝からリリースしたPOSITIVAのミックスCDには、ヒット直後の「Sweetest Day Of May」を収録していますよ。
 

 

 

――シリーズで「EMMA HOUSE12」がないんですよ。ただその年に『Live At Yellow』出してますよね。
そうそう、それが12です。
 

 

 

 
――Yellowも無くなってかなり経ちますけど、振り返ってみていかがですか?

やっぱり雰囲気も作りやすかったし、良い箱でしたね。場所も便利ですし、GOLDは芝浦まで行くっていうのも楽しみのひとつだったけど、もう少し利便性のいい場所で、昔からクラブが密集している場所に箱があったというのは大きかったです。DJブースから何からちゃんと考えられていた。Yellowは歴史を作ることに成功したクラブのひとつだと思います。
 

 

 

「もともとお前は何のためにDJやりたかったんだっけ?」
ていうのをいつでも言っていきたい。
 

 

 

――他にもageHaとAIRといった箱とのコラボシリーズを出してますよね。まずageHaに関しては「ULTRA MUSIC」もやってましたよね。ageHaでのエピソードは何かありますか?

エピソードというか、ageHaの立ち上げに携わってましたから。いろいろな想いがあります。ageHaにはモデルケースがあって、Zepp東京がオープンした際に週末だけクラブ営業をするというプロジェクトがありました。一晩で4千人集客して一晩でクローズしなければならなかった「Mother」がそれです。関係者はとても苦労したけど、結局はそれがageHaのオープンに繋がるんです。
 

 

 

——では、その「Mother」を復活させたことになるんですね。
僕自身はそう解釈しています。簡単な道のりではなかったでしょうから、本当にオープンできた時は信じられなかった。今でこそageHaに行くことも、遠出してフェスで遊ぶことも一般的になりましたが、オープン当初は「遠いから行きません」がキャチフレーズのようによく言われていた(笑)。風営法や騒音、地域住民とのトラブル、そうした問題をクリアした上で国内最大の箱を開けるには立地が重要で、当時、あの規模の箱をやるには、やはり新木場はキャパシティの面で有利だったでしょう。アリーナ以外にも、プールがあったりバスを走らせたりと、よく考えられていると思う。
 

 

 

——AIRに関してはいかがですか?
純粋なクラブでしたね。だから頑張ってほしいなって思ってましたけど…。AIRとの関係は、4年前のミックスCDの制作から始まり、ここ2年「Acid City」を続けてきました。でも最初、パーティーの方向性としては「Acid City」は断られたんです。「EMMA HOUSE」をやってくれと(笑)。でも僕は、いろいろな意味で個性的な「Acid City」を提示したかった。どういったアイデアがあるか、それを何度も話しました。結局はAIRを代表するパーティーの1つになったと思う。アシッドハウスを軸にパーティーを定期的にやれたことについても、とても感謝してます。
 

 

 

——あとWOMBでは「Trouble House」もありますね。
振り返ると、今のEDMの人たちが積極的にやってる映像を取り入れた演出は、僕らは当時からやっていたんです。もともとはライティングのAIBAのアイデアですが、音楽と映像と照明を全部シンクロさせるAUDIO&VISUALに特化したパーティーは、あの当時世界を見渡してみてもなかったでしょう。3面スクリーンなど、WOMBでしかできないアプローチでした。
 

 

 

——DJがフロアから見えない場所にいるというのも特徴的でしたね。
見えなくていい。
 

 

 

——見られない場所にいる時もテンションって保っていられるんですか?
難しいですよ。慣れもあると思うし向き不向きもあります。ですが、見られながらDJをするのってニューヨークのクラブシーンが崩壊してからかも。ニューヨークの大箱に関しては、クラブの作り自体が、映画館、教会、印刷所の跡地、古かったり、どうしても建物の構造の問題で仕方なく、DJブースは見えにくい場所、高い位置が多かったと思う。そういうブースを見慣れているからか自分的には違和感はないですね。確かに、盛り上がっているお客さんを見てテンションが上がるっていうのもあると思うし簡単ですけど、酒を飲まなくても音楽でテンションが上がる、それに近い感覚。自分が楽しければ多分みんなも楽しいはずだろうというのを信じてやるしかない。 
 

 

 

——クラブシーンにおいてのEMMAさん自身の役割を考えてたりしますか?
繋げることくらいしかできないですね。繋げることで次の人たちがどんなシーンを作っていくのか興味があるし、確かめたい。とにかく成熟したシーンになったら嬉しいです。下の世代を悪く言うつもりはまったくないのですが、何かアイデアあるだろう、とか。引っ張ってけよ、とか。そういうことは普段から普通に伝えていきたいし、自分に対してもですが「もともとお前は何のためにDJやりたかったんだっけ?」ていうのをいつでも言っていきたい。それを忘れちゃうと何をやってるかわからなくなる、ぶれちゃうんだと思うんです。
 

 

 

——では最後に、活動30年の歴史の中で転機があったとしたら何でしたか?
やっぱりハウスっていうものが出てきた時ですよね。俄然DJが面白くなった。ミックスにしても音の解釈にしても、自分のなかで一変しました。それまでは、音楽には詳しいつもりでいたのに、当初は何だかよくわからなくて「これ何なの?」っていう。それが驚きだった。ハウスの洗礼は僕のDJ人生で一番大きかったですね。結局今でもチョイスしてるのだから、ハウスが好きなんですよ。
 

■DJ EMMA 30th Anniversary 特集はコチラ

http://www.clubberia.com/ja/features/feature-146-dj_emma/

DJ EMMA Interview 前編はコチラ
http://www.clubberia.com/ja/interviews/750-DJ-EMMA/