INTERVIEWS

sons of AHITOは、
とにかく埋もれている奴らを拾っていく

取材/文:富山英三郎
写真提供:sons of AHITO



 ときにメロディアスに、ときに激しく、あらゆるサウンドを内包しながら、ライブを中心に音を合成するトラックメーカーのSATOL。かつてはフューチャーガラージやダブテクノといった謳い文句も有効だったが、既存のスタイルを壊しながら進化を続けているため、今のスタイルを一言で表すのは困難になっている。ゆえに、どうしても彼の周囲には抽象的な言葉が並んでしまい、難解さを感じてしまうことも多い。さらには、ハードコアバンドを経て、ジャマイカやドイツに移住していたなど、その経歴もまた異質。そんな彼が、今度はロシア発の新たなプロジェクト、sons of AHITOを立ち上げたという。
 


sons of AHITOには既存の枠にはまらない連中が集まっているんです。MCといっても、シャウト、デスボイス、絶叫、ポエトリーリーディングとかですから。

——今日は、SATOLさんやsons of AHITOについて、渋滞してる情報を紐解いていきたいのですが。まず大前提として、sons of AHITOは、SATOLとは別プロジェクトとして考えていいですか?
 
そうですね。AHITOは、ロシア人のイリアという仲間と新しく作ったプロダクションみたいなもので。そこを起点として、ハーコーな連中を集めてsons of AHITOという集団を作ったんです。
 
——昨年末、200本限定のファーストカセットテープを発表されて。今回のCD『war number』は、最新の6曲と、カセットテープで発表した音源が2枚1組になったWパックアルバムですよね。そのすべての曲で、MCがフィーチャリングされています。今後もそこは変わらずにいく予定ですか?
 
今はMC陣が多いですけど、sons of AHITOでラップをやりたいわけではないんです。世の中、どんな音楽ジャンルにも良い風習や悪い風習があって、ヘンなしがらみがあったり…、そういう悪い部分を払拭して変革していきたいんです。そのメインストリームにヒップホップがあるという捉え方でしかない。だから、sons of AHITOには既存の枠にはまらない連中が集まっているんです。MCといっても、シャウト、デスボイス、絶叫、ポエトリーリーディングとかですから。ファーストはみんなハードコア出身の奴らだし、セカンドにはUMBに出場しているラッパーもいますけど、彼らもまたシーンに不満を抱えている。
 
——悪しき習慣というのは具体的にはどういうことですか?
 
う~ん、ひとつには都心原理主義があると思うんです。みんな東京でウケようとして活動してしまっている。日本全体でみると、今度は海外の都市でウケようとしていたり。日本にもいいアーティストがいっぱいいるのに、どこかでコンプレックスを抱えているというか萎縮していて、みんなモデリングが外国人になっていますよね。自分も最初はそうだったし。でも、ドイツのベルリンに住んでいたときに、それではいけないと強く感じたんです。
 
——それは難しい話ですね。渦中にいると気付かないけれど、外から見るとそう見えてしまうのかもしれない。東京に関して言えば、実は細かい点(シーン)が乱立しているのが、遠くから見るとひとつの塊に見えているだけにも思えるんです。
 
そうなんですよね。そこは難しいんです。
 
——音楽に限らず、すごくマニアックだったり、すごく変態だったりしても2~3人はすぐに同志を見つけられるのが、都市の良さだったりもする。田舎よりも多様性はあると思うんです。
 
確かに、僕の音楽を気に入ってくれる人も東京の人が多い。だから、お客さんというより、音楽業界を変えたいと言えばいいのかな。SATOLもsons of AHITOも、ひとつの名もなき芸術革命なんです。
 
——新しい惑星を創ろうという感じなんですかね。
 
そうそう。既存の音楽ではないやり方をしていきながら、ジャンルからシーンから、すべて手作りで創っていきたいんですよ。



動画は『war number』CD1に収録の「過ぎた正義」。3D CGを自在に操るOCTMARKERLANDとのコラボレーション MV。



ロシアのパートナーは、J-POP好きの20歳

——そういった新しい試みの中で、ロシア人のイリアさんはどうやって繋がっていったんですか?
 
最初はSNSのサイトで知り合ったんです。彼はロシアで5000~6000人くらいいる、J-POPのコミュニティサイトの代表をやっていて。めちゃくちゃマニアックな、いわゆるオタクですね。カッコ良いカッコ悪いで言えば、カッコ悪いほうなんですけど。そこに可能性を感じて(笑)。
 
——えっ、もうわけがわからないんですけど…。
 
あははは。
 
——でも、J-POP好きのロシア人が、SATOLさんのことを知っていたんですか?
 
僕のことは知っていました。彼の中で、日本の音楽はすべてJ-POPなんです。
 
——なるほど。よくわからないけど、J-POPのくくりにSATOLさんが入っているがすごい(笑)。
 
とにかく無茶苦茶なんですよ。9mm Parabellum Bulletが好きだったり、倖田來未のファンだったりする。一方で、ステフ・ポケッツと一緒にやってみないかという話を持ってきたり。今回の作品にあたっても、Nina Kravizのレーベル[трип/trip recordings] のPTUからコメントをもらってるでしょ? 
それもまた彼のコネクションなんです。
 
——えぇっ!? イリアさんはお幾つなんですか。
 
20歳(笑)
 
——完全にデジタルネイティブな20歳なんですね、それは無敵だ。まさに世界が縦横無尽に繋がっている感覚なんでしょうね。
 
そう。彼と比べたら、僕にはまだどこかに固定概念があるかもしれない。
 
——ということは、カセットテープやCDがロシア製なのも、拠点がイリアさんの住むロシアのニジニ・ノヴゴロドだからなんですね。
 
そうなんですよ。だから、この前のカセットテープもケースが割れていたり、開けたらテープがぐちゃぐちゃになっていたりして。それを日本で1本ずつ仲間と巻き直したり。今度のCDも心配ですけどね。でも、それもまた面白い。
 
——配信の予定はあるんですか?
 
ないですね。今後もしないと思います。




「自分が思う前衛的なことをやってくれ」。それだけです

——そもそもの話に戻ってしまいますが、イリアさんとAHITOをやることに決めたとき、まずはどういうものにしていこうと考えたのですか?
 
真っ暗な中から新しい光を作っていくような。意識の統一化ですね。形骸化した業界のなかで、ひとつ抜きに出る違うものを作るしかない。そういう考え方しかなかったです。
 
——ファーストテープのトラックはSATOLさんだけですが、今回のセカンドは各地のトラックメーカーも4名参加されてますよね。それぞれ曲調やMCのリリックに違いはあれど、世界観は統一されています。メンバーにはどうオーダーしたんですか?
 
「自分が思う前衛的なことをやってくれ」。それだけです。
 
ーーそこに行き着くには、SATOLさんの音楽人生が大きく関わっていると思うんです。ここからは経歴についてお話を伺いたいのですが、まずは音楽に触れるきっかけは何だったのですか?
 
もともと、17歳からデスメタルのバンドをやっていて。きっかけは、HELLCHILDのCDをジャケ買いしたからなんです。そこから弾けもしないベースを買ってバンドを始めて。でも、曲があまりにも速すぎてイヤになったので、19歳くらいからハードコアにシフトチェンジしました。そして、ハードコアのオムニバスCD『Defender Of The Faith』に収録させてもらって。そこがひとつの区切りとなってバンドを脱退したんです。その後、大阪のI to I(アイ・トゥー・アイ)というレゲエのクラブで働くようになって、そのまま感化されて21歳でジャマイカへ。
 
——たまたまバイト先がレゲエだった、くらいの感じですか?
 
そうです、そうです。でも、I to Iはドイツのベルリンにもサウンドシステムがあるくらい有名なところで。ジャマイカは、パトワ語と音楽が学べる学校に1年半行ったんですけど。モンテゴベイだったこともあって、海とかで遊びまくってましたね。
 
——それでも音楽は作っていたんですよね?
 
バンドを辞めてからは、Logicを使ってひとりで作ってました。とにかくジャンルに属したものはイヤだったので、自然とアブストラクト的なものになっていきました。それで日本に戻ってきて、I to Iでまた働き始めて。28歳くらいで、男4人でクラブ経営を始めたんです。
 
ーーほぉ。
 
完全な4つ打ちバコで、海外からもいろいろなDJを呼んでいて。そこで出会ったのが、当時はキル・ミニマル名義だった、Madberlin主催のイアン・ガンボワなんですよ。彼にデモテープを渡したら、「良かったら一緒にやろう」ということになって、Madberlinから3枚のアルバムを出すことになったんです。同時にベルリンに移住することになって。
 
ーーMadberlinのレーベルカラーは、どういう感じなのですか?
 
テクノですね。所属アーティストはみんなライブ系で、イタリア人とスペイン人がメイン。Madberlinは、マドリッドとベルリンを組み合わせた言葉なんです。
 
——ベルリンではどんな活動を?
 
アーティストビザを取ったので、シェアでドイツ人と住んで身内のイベントに出してもらったりしていました。でも、なんか合わなくて1年で帰ってきたんです。今考えると、自分がまだ人間的に未熟だったのかもしれないけど、先述したsons of AHITOのコンセプトになっている部分はベルリンでの体験が大きい。



写真右がSATOL。



O.N.O親方に出会ったのは日本でのターニングポイント

——帰国してすぐにP-VINEから1枚アルバムを出して、その後にO.N.OのSTRUCTに所属したり、昨年はPROGRESSIVE FOrMから『Shadows』を発表したりと、精力的に活動されていますよね。
 
O.N.O親方に出会ったのは大きかったですね。最初は渋谷のasiaでお会いして、僕から話しかけて、地方を一緒に回らせてもらったりして。AHITOに関しても、O.N.O親方から学んだものを自分なりに表現している感覚は強いです。
 
——それはどういった部分ですか?
 
物事に対しての考え方や受け止め方、アンテナの張り方とか節操とか。とにかくO.N.Oさんの人間性が好きなんです。間違いなく、ひとつのターニングポイントになっていますね。
 
——ハードコアやレゲエ、テクノといったあらゆる要素をまとめるにあたって、O.N.Oスパイスで完成したという感じですか?
 
まとまりかけたときに、そこをさらに強化できた感じですね。「今までのやり方が間違ってなかった」と、自分に自信を持てるようになった。
 
——では、改めてSATOL名義と、sons of AHITOの一番の違いはどこでしょうか。
 
SATOLはより叙情的かつ、脱クラブミュージックなサウンドを考えていて…。今はポストクラシカルに興味があるので、そこに雅楽を交ぜていきたいとか、どんどん難解なものになっていくと思います。sons of AHITOに関しては、とにかく埋もれている奴らを拾っていく。シーンや業界に疑問を持っていたり、心にゴミを溜め込んでとんでもないことになっている奴らをね。
 
——最後に、今後sons of AHITOはどういう展開を目指していくのでしょう。
 
一発でかいイベントとかやれたらいいですね。あとは、僕以外の人が勝手に回してくれてるくらいの運動体になってほしい。欧米の真似事ではなく、「亜種」「亜人」として進んでいきたいんですよ。9月からはロシアツアーで、そのまま台湾にも行くんですけど、各地でいいアーティストを見つけて来れればと思っています。