そう話すのは、パスカーレ・ロッテラ氏。世界最大級の音楽フェスティバル「Electric Daisy Carnival(通常EDC)」の創設者だ。彼が来日するということで、インタビュー取材を行える機会を得ることができた。場所は渋谷のセルリアンタワーにあるGMOの会議室。白を貴重とした広い空間にはアートが飾られ、渋谷の街を見下ろせる眺望、高級なソファーに会議で使うであろう円卓などなど、ドラマでみるような空間。ここでパスカール氏とEDC JAPANのチームは、どのようなミーティングが行われたのだろうか? と思いを巡らせる。
EDCは1997年にアメリカ・ロサンゼルスでスタートした音楽フェスティバル。2011年からラスベガスのカーレース場に舞台を移し開催され、今では40万人を動員する世界最大級の音楽フェスティバルだ。「おとぎの国で開催されているエレクトロニックなお祭り」、そんな世界観が、大人たちに子どもの心を蘇らせてくれる。日本での開催は2017年から。会場は千葉県・幕張にあるZOZOマリンスタジアムと幕張海浜公園のビーチが使われている。
世界最大級と謳われるフェスティバルの最初の一歩
写真:Insomniac
「EDCの1回目の開催? もちろん覚えてますよ。ロサンゼルスのシュライン・オーディトリアムという劇場で行いました。来場者数は5000人でチケットはソールドアウト。でも超大赤字でしたね。もしかしたら、これまでに損をした金額の合計より、この1回の損失が多いかもしいれません(笑)。EDCの1回目は、私にとって初めての合法的なパーティーでした。それまでやっていたウェアハウスパーティーの制作に慣れ過ぎてしまい、いざルールを守ってやるとお金がかかるんですね。想像もしていない金額の請求書が各所から届いて。」
本人が言うように、パスカーレ氏がそれまで行っていたのはウェアハウスパーティーだった。倉庫などを使い会場を公にはしないため、知り合いや、関係者の電話番号を知っている人しかたどり着くことができないパーティーだ。「最初のイベントは来場数300人。入場料は5ドル。それでも私は、とても幸せでしたよ。」と振り返っている記事がMagnetic Magazineにある。当時17歳だった彼がその言葉を発していると思うと、とても可愛らしく思えてくる。誰にでもそういう時期がある、たとえ今や40万人もの人を動員するフェスティバルの創設者だとしても。
「私は、もともとパーティーが大好きでした。あれば毎日でも行きたかった。しかし1992年にロサンゼルスで起こった暴動の影響もあり、深夜にパーティーができなくなってしまいました。違法になってしまったんですね。でも私はパーティーに行きたかったから、自ら作ったんです。」
これが、後のEDCへのつながる第1歩となる。そしてパスカーレ氏は、イベント運営会社Insomniac(インソムニアック)を1993年に設立することとなる。
「Insomniacを作った理由は、私は音楽がとにかく大好きなんですよ。音楽イベントで人を集めて、みんなハッピーにすること。これはとてもポジティブで革命的だとも思っています。Insomniacの変わらない理念としては、イノベイティヴであること、ハイクオリティであること、ひとりひとりの世界観を変えること。我々は、世界一の音楽イベントを作るために、つねに集中しています。」
幼いころからベニス・ビーチで音楽に囲まれる日常をおくる
90年代のパーティーや音楽について話すとき、パスカーレ氏は少し早口になるのが印象的だった。自身の立場上の責任から開放されるのか、あれも話したい、これも話したいといった具合だ。当時のパーティーを象徴するような音楽を自らのiPhoneでかけては、この曲は知っているか? このDJは知っているか?と逆に質問を受けることになる。
「当時、私がやっていたパーティーでは、テクノ、ハウスを中心にやっていました。複数のスペースが作れる会場であれば、ファンクやレア・グルーヴも入れたり。今みたいにいろいろなジャンルがあるわけではなけれど、DJはいろいろな曲を聴かせてくれました。テンションがピークのときは……、たとえばビザール・インクのPlaying With Knivesとか。この曲は知っていますか? 今も繋がっているDJだと、ドック・マーティンやMKでしょうか。MKの1992年のこの曲、ハウス好きなら絶対に分かるはずですよ! えっ、知らないの? このあいだもEDCメキシコで彼がめちゃくちゃ盛り上げてくれたんですよ。私もDJをする彼の横にいて、素晴らしい光景を見ることができました。」
本人が言うように、パスカーレ氏がそれまで行っていたのはウェアハウスパーティーだった。倉庫などを使い会場を公にはしないため、知り合いや、関係者の電話番号を知っている人しかたどり着くことができないパーティーだ。「最初のイベントは来場数300人。入場料は5ドル。それでも私は、とても幸せでしたよ。」と振り返っている記事がMagnetic Magazineにある。当時17歳だった彼がその言葉を発していると思うと、とても可愛らしく思えてくる。誰にでもそういう時期がある、たとえ今や40万人もの人を動員するフェスティバルの創設者だとしても。
「私は、もともとパーティーが大好きでした。あれば毎日でも行きたかった。しかし1992年にロサンゼルスで起こった暴動の影響もあり、深夜にパーティーができなくなってしまいました。違法になってしまったんですね。でも私はパーティーに行きたかったから、自ら作ったんです。」
これが、後のEDCへのつながる第1歩となる。そしてパスカーレ氏は、イベント運営会社Insomniac(インソムニアック)を1993年に設立することとなる。
「Insomniacを作った理由は、私は音楽がとにかく大好きなんですよ。音楽イベントで人を集めて、みんなハッピーにすること。これはとてもポジティブで革命的だとも思っています。Insomniacの変わらない理念としては、イノベイティヴであること、ハイクオリティであること、ひとりひとりの世界観を変えること。我々は、世界一の音楽イベントを作るために、つねに集中しています。」
幼いころからベニス・ビーチで音楽に囲まれる日常をおくる
90年代のパーティーや音楽について話すとき、パスカーレ氏は少し早口になるのが印象的だった。自身の立場上の責任から開放されるのか、あれも話したい、これも話したいといった具合だ。当時のパーティーを象徴するような音楽を自らのiPhoneでかけては、この曲は知っているか? このDJは知っているか?と逆に質問を受けることになる。
「当時、私がやっていたパーティーでは、テクノ、ハウスを中心にやっていました。複数のスペースが作れる会場であれば、ファンクやレア・グルーヴも入れたり。今みたいにいろいろなジャンルがあるわけではなけれど、DJはいろいろな曲を聴かせてくれました。テンションがピークのときは……、たとえばビザール・インクのPlaying With Knivesとか。この曲は知っていますか? 今も繋がっているDJだと、ドック・マーティンやMKでしょうか。MKの1992年のこの曲、ハウス好きなら絶対に分かるはずですよ! えっ、知らないの? このあいだもEDCメキシコで彼がめちゃくちゃ盛り上げてくれたんですよ。私もDJをする彼の横にいて、素晴らしい光景を見ることができました。」
パスカーレ氏の音楽のルーツは、クラフトワーク、ハービー・ハンコック、アフリカン・バンバータといったエレクトロニック・ミュージックやBボーイ・ミュージックを7歳ごろから聴いていたという。あまりにも早すぎて17歳くらいのころですね。と話を進めたら、違いますよ7歳くらいですよと通訳に訂正された。なぜ、それほどに音楽に早熟だったのか? その答えは80年代のロサンゼルスはベニス・ビーチにあるという。
「幼いころからベニス・ビーチの遊歩道によく行っていました。あそこには、ブレイクダンサーがいたり、ブームボックス(大型のラジカセ)を肩に乗せている人がたり、ミュージシャンがいたり、アーティスがいたり、怪しい人もいたり。怪しい人はたくさんいたな(笑)。とにかく、音楽から逃げられる場所がないほど、音楽に囲まれた場所だったんです。」
EDCを日本でカルチャーとして根付かせるために
「幼いころからベニス・ビーチの遊歩道によく行っていました。あそこには、ブレイクダンサーがいたり、ブームボックス(大型のラジカセ)を肩に乗せている人がたり、ミュージシャンがいたり、アーティスがいたり、怪しい人もいたり。怪しい人はたくさんいたな(笑)。とにかく、音楽から逃げられる場所がないほど、音楽に囲まれた場所だったんです。」
EDCを日本でカルチャーとして根付かせるために
写真:Insomniac
さまざまな人が入り交じるベニス・ビーチ。幼かったパスカーレ氏が見ていた光景は、彼が作ってきたフェスティバルに少なからず影響を与えていることだろう。EDCではブームボックス型のDJブース付き車両が走っていたり、ピエロなどに扮したキャストがいたり。何よりビーチもある!なんて考えるのは、少し浅はかかなとも思いつつ。これらか彼は、EDC JAPANをどうしていきたいと考えているのだろうか?
「私のなかで強く感じていることは、もっとパワーアップできるということ。そして、徐々にラスベガスで開催しているEDCに近づけていきたいと考えています。そのための助走として、アメリカでやっているイベントを日本に持ってこようと思っています。そして、日本のイベンターやクラブなどとコラボレートして、一緒に作っていくつもりです。たとえばFactory 93やDREAMSTATE SOCAL、Bassrushなど。EDCは1年中活動しているInsomniacのイベントが一堂に会するお祭りでもあります。アンダーグラウンドなイベントもあれば、ヒップホップやダンスにフォーカスしたイベントがあったり、ベース・ミュージックだったり。それらが集まってラスベガスでEDCを行うのです。すべての音楽の祭典、世界一の音楽フェスティバルだと自負してます。」
世界的なフェスティバルを日本で開催すること。これは、2010年代位以降、象徴的な現象だったと思う。さまざまなフェスティバルが日本で開催されるようになった。EDMの流行とともに、一般層にまで広まるスピードはブームだったと言えるだろう。しかしブーム(流行)であるなら飽きられるのも早いというのが世の常。EDCは、日本のダンス・ミュージック・シーンに定着するのだろうか?
「EDCはトレンドに乗る団体ではありません。真剣に考え紳士に作り出しているだけです。日本だとEDC=EDMフェスと位置づけられているようですけど、EDMはEDCの要素のひとつにしかすぎません。ジャンルに関係なく、いい音楽はたくさんありますよね。Insomniacは、音楽が好き過ぎてひとつだけを推していくことはできません。全体を推していきたいと考えています。私のルーツである1990年代の音楽も振り返りつつ、その音楽をEDCの場で再提案するかもしれません。私たちは、純粋にファンの心を持って取り組んでいきます。日本のシーンのニーズに合わせて、誰もやっていないことをやっていきたですね。」
「私のなかで強く感じていることは、もっとパワーアップできるということ。そして、徐々にラスベガスで開催しているEDCに近づけていきたいと考えています。そのための助走として、アメリカでやっているイベントを日本に持ってこようと思っています。そして、日本のイベンターやクラブなどとコラボレートして、一緒に作っていくつもりです。たとえばFactory 93やDREAMSTATE SOCAL、Bassrushなど。EDCは1年中活動しているInsomniacのイベントが一堂に会するお祭りでもあります。アンダーグラウンドなイベントもあれば、ヒップホップやダンスにフォーカスしたイベントがあったり、ベース・ミュージックだったり。それらが集まってラスベガスでEDCを行うのです。すべての音楽の祭典、世界一の音楽フェスティバルだと自負してます。」
世界的なフェスティバルを日本で開催すること。これは、2010年代位以降、象徴的な現象だったと思う。さまざまなフェスティバルが日本で開催されるようになった。EDMの流行とともに、一般層にまで広まるスピードはブームだったと言えるだろう。しかしブーム(流行)であるなら飽きられるのも早いというのが世の常。EDCは、日本のダンス・ミュージック・シーンに定着するのだろうか?
「EDCはトレンドに乗る団体ではありません。真剣に考え紳士に作り出しているだけです。日本だとEDC=EDMフェスと位置づけられているようですけど、EDMはEDCの要素のひとつにしかすぎません。ジャンルに関係なく、いい音楽はたくさんありますよね。Insomniacは、音楽が好き過ぎてひとつだけを推していくことはできません。全体を推していきたいと考えています。私のルーツである1990年代の音楽も振り返りつつ、その音楽をEDCの場で再提案するかもしれません。私たちは、純粋にファンの心を持って取り組んでいきます。日本のシーンのニーズに合わせて、誰もやっていないことをやっていきたですね。」
Pasquale Rotella(パスカーレ・ロッテラ)
Electric Daisy Carnival(EDC)の創設者であり、さまざまな音楽イベントを手がけるロサンゼルスのイベント運営会社Insomniacの創業者にしてCEO。Rolling Stone誌をはじめ海外の音楽メディアが取り上げる音楽業界にもっとも影響力のあるひとり。