INTERVIEWS

1969-2020
Wonkavatorという生き方
- KOTARO - (後編)

Interview & Text:Hayato Onodera
Photo:Kotaro Manabe , Teppei Hori


 国内トランスシーンの歴史を振り返った前編に変わり、後編では語り部をつとめてくれたKOTARO氏自身にスポットを当てていく。90年代初頭よりDJ、フォトグラファー、ライター、オーガナイザー、レーベル事業等……様々な分野を横断してきた氏の活動には、いつの時代も“Wonkavator”の姿勢が帯びていた。DJ名のクレジットにも付けられているその単語を糸口に、今もブレない表現の根本を幼少期までさかのぼって紐解いていく。
※この取材は2020年1月11日に1回目を、2回目を11月8日に実施しました。


——ずっと気になっていたのですが、DJ名の後ろにいれている“Wonkavator”は所属場所の名前なんですか? 

Wonkavatorはレーベル名。前にTECHNO FLUXという武尊祭をオーガナイズしていた会社に在籍していたときに、レーベルの活動構想を思いついて、そのあとWAKYOからコンピレーションCDをリリースすることになったときからずっといれている。


——どういった意味が込められているんですか?

『夢のチョコレート工場』っていう70年代前半に制作された映画があるんだけど知ってる?


——ジョニー・デップが出演している作品ですか?

いや、『チャーリーとチョコレート工場』ではなくて1970年代に発表された方
。そこに出てくるエレベーターの名前が“Wonkavator”。


——映画の中に出てくる造語なんですね。PCで調べても意味が出てこなかったんですよ。

うん、出てこないと思うよ。その映画のラストシーンでウィリー・ウォンカというチョコレート工場のオーナーが、チャーリーという子供に「このエレベーターは上下だけじゃなくて右でも左でも斜めでも好きなところに行ける」って言うシーンがあるんだよ。だから、もともとの意味から言えばWonkavatorはどこへでも行けるエレベーターのこと。ストーリーの流れにあるその意味と重ね合わせて、ジャンルという枠に当てはまらず自分の感覚で行きたいところにいけるレーベル名として付けたんだよね。というのと、俺はレーベル以外にもDJもするし写真も撮るし、ひとつのフォーマットにこだわっていないから、自分の活動を表す良い表現だと思って付けたのもあるね。


——Wonkavatorをカメラマンの活動に当てはめて言うと、パーティーを撮る一方で結婚式も撮るような、ジャンルをまたいで活動するようなことですか。

うん、結婚式も撮れば、ボクシングの試合も撮る。イラクやパレスチナの難民キャンプを撮影することもあるし、去年末は紅白歌合戦のリハーサル写真も撮った。頼まれれば七五三やマタニティの写真を撮ることもある。

 
Nogera@渚音楽祭
 
2014年 天笠尚@ボディーメイカーコロシアム
 
2019年 @イラク・ダラシャクラン難民キャンプ

——めちゃめちゃ仕事の幅が広くないですか。

興味があれば何でも受けているからかな。私生活では年末に紅白を見るようなライフスタイルとは無縁だけど、こういった仕事がなければその現場がどうなっているのか知る機会がないわけじゃん。J-POP?歌謡曲なんて興味ねえよって普段思っていても、実際に現場で見ると彼らが何故シーンの第一線で活躍できているのかというプロフェッショナルな意識や、周囲のスタッフの本気度に触れることができて、ものすごく刺激と勉強になる。確かに中には別に撮らなくてもよかったなっていう仕事はあるにはあるけれど、往々にどの現場もそういった知らない世界に触れることができて面白い。もともとトランスパーティーに興味を持ったのも、それまでの人生の中で経験したことがない刺激に驚いたし凄いと思ったわけであって、そういう人生の初体験は何歳にあっても良いと思うの。そんな場所に呼ばれるのって他の職業をしていたらなかなかないしね。


——好奇心が仕事の幅を広げていると。

そう。でも面倒くさがりやだから自分からは撮りにいかない。頼まれればそこに行くっていう。いただけるものは拒まずにやるけれど、俺からその現場やらせてくださいと言ったり、営業して撮らせてくださいっていうのはほぼないかな。


——待っていると向こうから来るんですか? 

昔から何かのきっかけで呼ばれたり当たることが多いんだよ。それこそ初めての海外旅行は、ある映画のキャンペーンでケニア旅行に当選して。これも行きたくて行ったわけではないし、友達が抽選会の情報を見つけてついて行ったら、彼には原田知世のカレンダーが当たって、俺にはケニア旅行が当たったっていう。友達に誘われてオーディションに付き合ったら興味のなかった自分が合格しちゃうみたいなアルアル話に似てるけれど、まさにそれで。そういう人生のターニングポイントになるときは、何かに呼ばれて行くことが多かった気がする。


——ケニア旅行はどういったターニングポイントに?

カメラをはじめるきっかけ。母親に「こんなところ一生に1度行けるかどうかわからないんだからせっかくなら良いカメラを持って行きなさい」って言われて一眼レフを買ってもらって。


——初めての海外旅行がケニアって衝撃的だったんじゃないですか。

いきなりケニアだからね。しかもジャングルの中でテントを張って生活する特殊な旅行だったから、朝起きて外に出たらいきなり目の前で象の大群が移動していたり、カルチャーショックの度合いが想定内じゃなかった。でもこの旅には密着で撮影隊が同行していたんだよね。そのときは旅の記録として撮っているんだろうなと思っていたら帰国後に「ドキュメンタリー番組として放送されますから」って言われて、そこで初めて全貌を聞かされるっていう。


——やらせじみていたんですか?

やらせというか、演出過剰なシーンを意図的に作って撮っていた。そういうテレビの裏側みたいなのを知っちゃって、アンチテレビな姿勢が早々に生まれはじめる。大体のテレビ番組は、事前にお膳立てされている偽物でしょって14歳の頃から疑った目でかかるようになった。


——当時のテレビによる影響力を考えると、他の中学生とは物事を大分違う目で見ていたんじゃないですか。

それが原因っていうわけじゃないけれど、昔からみんなと一緒に同じことをするというのがどうも苦手で。1人だけ孤立しちゃうのもちょっと寂しいものだけれど、同じことをやるにしても自分のオリジナリティーを出したいっていう気持ちは子供の頃からあった、うーん、何だろうね、その性格は。


——じゃあ中学校の部活では団体競技はまったくせず?

ラグビー部だったよ。でも別にラグビーが好きだったわけじゃなかったんだけど、先輩後輩みたいな体育会系の上下関係がとにかく嫌で。とはいえ部活には入らなければいけないという空気の中で友達と「じゃあ自分たちで部活を作っちゃえば先輩とかいないし、いいんじゃね?」みたいな。でも、普通に野球部、サッカー部、バスケ部といった王道は一通りあるわけじゃない? それで、通っていた中学にはラグビー部がなかったから「じゃあラグビー部で良くね!?」って話になって職員室に直談判をしに行った。そしたら、偶然新しく赴任してきた体育教師が、前の学校でラグビー部の顧問をしていたという運命的な出会いもあって……。結局、ノリと勢いだけでルールもろくに知らないではじめた部活だったけど、最終的には関東大会までいけたよ。


——いやー意外です。がっつりやってたんですね。

がっつりやってたよ。中3の夏休みが終わったら周りは受験勉強に専念していたのに俺らずっとラグビーやってたもん。


——受験そっちのけでハマったんですか?

ハマったっていうかそもそも受験ってどういうものなのかをあまり理解できていなかった。自分の家は母子家庭で母親がずっと働いていたから勉強しなさいとか言われなかったし、かなりマイペースでのんきに生きちゃってて。偏差値?受験って何?っていう。


——じゃあ勉強はまったくやらず?

もともと好きな教科しかやらなかったから主要5科目の成績は全部2。でも体育、技術、美術、音楽だけは全部5だったという超極端な成績。で、三者面談のときに先生から「お前は筆記試験では点数とれないだろ。でも、内申点はとにかく良いからもう受験せず推薦入学で行け!」って言われた。高校には行きたいと考えていたし「バイクに乗ってもいいような校則が緩い学校だったら行きます」って答えて。


——そのあと高校に入って、バイクに乗って、いろんなカルチャーと出会うわけですか?

カルチャーというか、まず映画を観る本数が一気に増えた。中学生の頃から映画館には行っていたけれど、お小遣いで観れる本数なんて限られているじゃん。高校生になってバイトをはじめて、自由にお金を使える環境になったからバイクでオールナイト上映を観に行ったり、それこそ学校をサボって行ったりもしちゃってたかな。そこから音楽の話に飛んじゃうんだけど、映画ってジャズ、クラシック、ロック、電子音楽系含めて、あらゆるジャンルの音楽を取り扱っているわけじゃない? 最初に音を集めはじめたのはそういった映画のサントラがきっかけだった。だからもともと音楽をジャンルで捉えていなかった時間が結構長いんだよ。ちなみに去年買ったCDやレコードは全部映画のサントラ。


——では、クラブミュージックの興味も映画から?

クラブミュージックは大分あと。もちろん音楽は聴いていたし、当時は六本木WAVEでCDを買うことが多かったけれど、ダンスミュージックとはまったくの無縁。むしろ勝手な偏見を持っていて最初は嫌いだった。でも、友達に誘われてはじめて行ったのがYellowだったかな。そこで回していたK.U.D.Oさんを聞いて、「あ、これ俺がイメージしていたマハラジャやジュリアナのようなディスコとは全然違うじゃん。テクノってYMOみたいな音以外のもあるんだ」と気付かされた。


——いきなりコアなテクノにハマるのってハードルが高くなかったですか。

とにかく格好良かったんだよね、音も、当時そこに集まっていた人のヴァイブレーションも。そこからトラベラーの友達と毎週木曜から日曜まで連日パーティーに行くようになる。


——というと、Yellowに行く前からトラベラーの友達とは遊んでいたってことですか。どこで知り合ったんですか?

当時バイトが終わったあと六本木の青山ブックセンターに寄り道して帰るのが日課だったんだけど、六本木通り沿いで、映画とかでよく見かける親指を上に向けて手を上げている外国人がいたの。ヒッチハイク?え?みたいな(笑)。当時ヒッチハイクなんてまず日本では見かけない光景だったから、ちょっと面白そうだと思って停まってみると「マハラジャパレスまで乗せていってほしい!」と。そんなところ知るわけもないし、とりあえず車に乗せて言われるがまま運転していくと、着いた場所が戦後すぐに出来たんじゃないかっていう木造の学生寮みたいなボロ家。2階立ての長屋みたいなところに外国人が60人くらい住んでいて、そこに招き入れられると、彼らが国籍関係なくリビングルームに集まって談笑しているの。その光景に、ヤバイ!ここ面白いじゃんってなって。「どこから来たの?」って聞くと、みんなそれぞれに違う国の名前を言う。チリ人もいたし、イスラエル人、イギリス人、アメリカ人、ノルウェー人、フランス人、あらゆる人種がいた。そうした環境が英語を喋るのにすごく良かったんだよね。フランス訛りの英語、イスラエル訛りの英語、それぞれが自分たちの国訛りのまま片言の英語で話すから、コミュニケーションをとる手段として日本語訛りの英語を使ってもあまり恥ずかしくなかった。これでいいんだって思えるようになった。それがネイティブのイギリス人やアメリカ人だったら、キレイな英語だからこっちもちゃんと喋らなきゃってなっちゃうんだけど、ジャパニーズイングリッシュでも意志さえ伝わればいいんじゃんって思えるようになって。それからはあんまり恥ずかしいと思わずに英語でコミュニケーションをとるようになったね。


——もともと英語は話せたんですか?

話せない。さっき言ったように中学のときの英語の成績はずっと2だったよ。でも彼らとコミュニケーションをとるために英語は必要だったし、ほぼ毎日彼らと過ごしていたから独学で自然と喋れるようになっていった。英語の入り口としてとても良い場所だったんだよね。


——マハラジャパレスの住民が先生だったんですね。

そう。その頃はインターネットはもちろん、翻訳機もないから知らない単語は辞書で調べるしかない時代。それから彼らと遊ぶようになり、Yellowのパーティーに連れていかれてK.U.D.Oさんのプレイを聴いたときに、この人たちと遊んでいて本当に良かったと思った(笑)。そうやって連日遊び続けているうちにTwilight Zoneと関わるようになりゴアに行く流れへと繋がっていく。


——前半で聞かせてもらったように92年から毎年ゴアに行くようになるわけですよね。そのときはどういうライフスタイルを送っていたんですか? 正直、普通の会社員が毎年数ヶ月休んで海外へ行くことは難しいと思ってしまうのですが。

うん、ゴアに行きはじめるようになってからはまず、ライフスタイルを変える必要があった。だって、当時はインターネットがないしリモートワークというような概念すらない時代。そもそも日本の社会システムの中でそんな生活を続けるのは現実的に無理。「三ヶ月海外行かせてください、日本帰ってきました、また仕事します」って言ったって普通は一度辞めてくださいってなるでしょ。だからトラベラーと同じような生活をね、していこうとすると住む場所や仕事も彼らと同じようになっていく。だから、住む場所に関しては今でこそ当たり前になってるけど、シェアハウスやAir B&Bの走りのような外国人ハウスに寝泊まりして、仕事は六本木にあった外国人ホステスクラブで。それを6年間続けた。そうなるとパーティーの方でも遊び方が多少変わってきて、仕事先の従業員も往々にパーティー好きだったからEQUINOXのパーティーになると酒屋の友達から配達用のハイエースを借りて、その中に仕事終わりのホステスやウェイターを詰めるだけ突っ込んで、パーティー会場まで俺が運転して連れていったり。


——え、従業員全員がパーティー好き?

全員ではないんだけど、主にヨーロッパ系のトラベラーたち。逆にアメリカから来ている子たちはまったくパーティーに興味を示してこなかった。そういう友達をパーティーに連れて遊びに行く一方で、バイト先の外国人ホステスクラブからは、こいつは写真を撮れるらしい、グラフィックデザインをちょっとかじっているっぽいと思われたようで。その影響か仕事面でそういうクリエイティブなことを任されるように変わっていく。


——具体的に言うと、どういった仕事をされていたのですか?

お店でショーをおこなっていたダンサーの写真を撮ったり、店が開催するイベントごとにフライヤーを作ったり、裏でそういうものを制作する仕事に重きをおかれるようになっていったね。


——基本的にKOTAROさんは写真でも何でも独学なんでしょうか。

基本的には独学だね。写真を仕事にしている人は、大体写真事務所やスタジオ、写真家のアシスタントに就くことからスタートすると思うんだけど、俺にはそういう下積みがない。良くも悪くもそこが俺の性格なんだと思う。上下関係から自由でいたいっていう。だからラグビー部を作っちゃえみたいな発想になったり、師弟関係を居心地良く感じないのかもしれない。


——だから、外国人トラベラーたちとの共同生活が合ったんですかね。

それはあるかも。みんな年齢も性別も国籍も関係なく接していたし、とにかく考え方が自由なわけですよ。それまで何も考えずにやりたいことをやってきて、何か知らないけどうまくいったままで来ているから、基本的に何とかなるっしょと思っている。そうしたら外国人のヒッピーたちとの共同生活の方が、日本のカチッとしたライフスタイルよりも全然俺には合っちゃったよね。それに写真の被写体としても彼らはとてもフォトジェニックで撮りがいがあったしさ、一緒に生活するのにいろんな面で居心地がよかったんだよ。だから、旅のシーズンが来たら日本を出て、帰ってきたらまた外国人ハウスに住みながらクラブで働くライフスタイルを6年間続けられたんだと思うよ。


——そういったライフスタイルに変えてでも、毎年ゴアに行きたかった理由って何でしょう? 

そのコミュニティに仲の良い友達が多かったから、彼らとのんびり遊びに行く時間が欲しかったのと、新しい音源の情報交換をしに行くみたいなね。あと、何ていうのかな、スピリチュアルやヒッピーマインドとは言わないけれど、人間本来のあるべき姿に近い状態になれる空気感が当時のゴアにはあったから。東京にいると、なかなかその状態を維持していくことは難しかった。


——逆に言えば、99年以降ゴアに行かなくなったのはそういった気持ちになれなくなったからですか?

前編でも話したけれど、段々とゴアの雰囲気が変わってつまらなくなってきたんだよね、パーティーも音も。あと、毎年音源を集めに行っていた話に繋がるんだけど、当時のゴアには市場に回っていないアンリリースの音源をその場で聴かせ合って交換するカルチャーがあったの。イスラエル人はイスラエル人の曲を持っていて、イタリア人はイタリア人の曲を持っていて、俺は日本人のMASA、REE.K、KUROの作った音源などを持っていて、お互いが持っている曲を聴かせ合い気に入ればDATプレイヤーを繋いで交換して、自分の国でDJをするときに使うっていう文化があった。でも、そういうのはもういいかなって思いはじめたのもある。


——何かあったんですか?

ポピュラーになりすぎちゃったんだろうね。自分にとって居心地がそれほど良い場所ではなくなってしまった。それにゴアって目の前がビーチなわけですよ。それこそバイクに乗って走り回ればいろんな物を見ることができる中で、部屋にこもってずーっと曲を聴きつづける。やっと欲しい曲が見つかって交換するときも、DATは録音するのに曲の長さと同じ時間が必要になるから再度8分、9分待つことになる。インドまで来てこんな生活を続けるのもどうなんだろうって(笑)。


——途中で気づきはじめたんですね(笑)。

ビーチを目の前にしながら朝から晩まで道場状態、それって何かちょっとなっていう(笑)。


——正直言うと、KOTAROさんは今やトランスの音にはまったく興味がないように見えますね。

うん、もはや今は苦手かも。でも90年代後半位までは、なんだかんだ言って好きだったし、トランスがない人生なんて考えられないって思っていた時期が間違いなくあった。ゴアパンも履いていたし。そこは20代の若い頃は通りましたよ。

 
1996年 左からBEN WATKINS (JUNO REACTOR)、KOTARO、MIKE MAGUIRE、IAN


——今だったらゴアに行きたいと思います?

今のゴアがどんな風になっているのか見てみたいっていうのはちょっとあるかな。あとパーティー云々は関係なく、エンフィールドに乗りたいっていう気持ちも多少ある。


——ゴアでバイクを借りる際に、こだわる人はエンフィールドに乗ると決めていますよね。好きな人にとっては特別なバイクなんですか? 

特別なバイクだね。もともとはイギリス生まれのバイクで、インドがイギリスの植民地だった時代は両国で生産をしていたんだけど、第二次世界大戦後にイギリス本国からは撤退しちゃうんだよ。そのあとインドのみでずっと作り続けられてきたから今生産されているのはMADE IN INDIAなの。当時から大幅なアップデートがされてきていないから、昔のエンジンのままですげぇクラシック。だからその分いじりやすい。でも、日本のバイクに慣れてから乗りはじめるとブレーキとクラッチのレバー位置が左右逆で、しかもシフトペダルの上下も逆だから頭がこんがらがるんだよ。そういった意味では乗りにくいバイクなんだけどやっぱり格好良いんだよねぇ。でも、日本で乗りたいかっていうとまたちょっと違って。性能的なことも含めて、ゴアで乗るからこそ機能しているんだなって気もするし。

 
Royal Enfield BULLET 350 @GOA photo by namichou


——こじつけになっちゃうかもしれないんですけど、映画のサントラがDJに影響を与えているように、バイクもDJに影響を与えたりしています?

多少なりとも影響はある。昔から基本的に日本中どこに行くにしても大体の移動手段はバイクだったんだけど、高速道路でエンジン音を感じていると、脳内でトランスのグルーヴが勝手にぐるぐると鳴りはじめることが多々あった。もし俺がトラックメイクをする人間だったら、バイクに乗ってるときに浮かんだメロディーやグルーヴを曲作りに反映していると思うよ。


——エンジン音の振動が瞑想時のような状態に入らせるんですかね。

そういう部分は絶対にある。バイクに乗っているときの集中力が一定の域を越えたときに、気持ちとしてすごく落ち着く瞬間がくるんだよね。ある意味メディテーションだと思うよ。前にゴアでYOUTHが『ZEN AND ENFIELD』っていう禅とエンフィールドと結びつけている書物を読んでいるのを見たけど、やっぱりそういう考え方はあるんだよ。



——そのバイクについての近況を聞きたいのですが、3年前に巻き込み事故で入院されていましたよね。今は前と同じように乗れているんですか?

いや、乗ってないよ。今のところバイクの代わりに車があるからそんなに不便は感じていないかな。これまでは雨だろうが雪が降ろうが関係なく乗っていたけれど、現役を離れて3年近く経っているからもう一度あれをこの年でできるかと言ったら、いや、車でいいっしょってなる(笑)。ただ、事故が怖くてバイクに乗りたくなくなったという感覚はない。なので少しづつではあるけれど、義父の形見のCB750FOURというバイクのレストアをはじめていて、いずれはそれに乗ろうとは考えているけど、周りからは「もうバイクに乗らないでくれ!」って心配はされている。


——心配する気持ちはわかります……。怪我は治ったんですか?

膝の方はボルトが入ったままでもう入れっぱなしにするつもり。鎖骨の方は同じ場所を3回切る手術をしているから結構神経がやられちゃってて、歯医者で麻酔をかけられたときのようなボワーっとした感覚が今もずっと残っている。まだ触ると痛い部分があるから車に乗るときもシートベルトを脇の下を通したりして。まぁ事故自体は相手が突っ込んできたから完全に向こうが悪いんだけどね、


——ここまでの話を聞いて思うのですが、KOTAROさんにとってバイク、音楽、写真、映画は欠かせない四大要素だったわけじゃないですか、事故によってそのひとつであるバイクがなくなったときの心境は、正直どうだったんですか? 

不安になったり焦ったりとか、そういうのは全然なかったんだよ。でも、強制的にリセットボタンを押されたじゃないけれど、突然入院生活というオフの時間ができたことで、この先の人生をどういう風に組み立てていくのかを立ち止まってちゃんと考えた。わかりやすい例で言えば、真剣に結婚とかを考えるようになったし仕事の仕方も変わった。本当にその日暮らしだったから(笑)。


——そんな雰囲気にはまったく見えなかったです。

それは毎回何とかなると思っていたからだよ。だって、3ヶ月以上先のプランが俺にはなかったんだもん。


——冗談で言ってます?

本当に。若い頃からこんな大人になりたいとか考えて生きてこなかったし。人生行き当たりばったりでどうにかなると思ってきた。だから周りからはそんないい加減じゃダメだと驚かれるし怒られるし(笑)。若いものには負けないとかそういう感情もない。


——師匠じゃないですけど、お手本にしようと思った人もいないんですか?

いないんだよね。DJ道にしても写真道にしてもそもそも師匠みたいな人がいないし、目標とする人もいなかった。言ってしまえば、DJにもなろうと思ってなったわけではなく、最初のきっかけは「それだけレコードとか集めて持ってるならDJやってみたら!?」って友人に誘われたことだったし、フォトグラファーも、トラベラーの友人たちを旅先で撮っていたのがきっかけで、そのままEQUINOXの記録をスタッフとして撮っていたら、他のオーガナイザーたちからも「うちのも撮って欲しい」と頼まれるようになった流れだし。「DJになる!」とか「将来は写真家になりたい!」とかを目標にしてはじめてはいないんだよ。ただ、師匠とか影響を受けたとはちょっと違うかもしれないけど、SYSTEM 7とSUGIZOさんには尊敬できる部分が常にある。


——どういったところが?

SYSTEM 7の2人が凄いのはずっと進み続けている、自分の親の世代と年齢的にはあまり変わらないのに未だに止まってないのよ。音楽的に前衛的かどうかは別にして、新しく出てくるテクノロジーを積極的に自分たちの音楽に取り込んでいる。前身のGONGで活動しているときもMiquetteは当時シンセサイザーを使うことに対して、他のミュージシャンにぼろくそ言われたんだって。あんな電気音楽は楽器じゃないってバカにされたりとか。でも40年後の今やシンセサイザーって立派な楽器じゃない。で、そういった昔のアナログシンセも使うけれど、その横で最新のiPadを導入して音を出したり、便利で新しいものは積極的に取り入れる。っていう姿勢とあわせて人間性も凄いなと。大御所中の大御所なのに、昔からえらぶってないんだよね。年が離れているのにいつも友達みたいに接してくれるし、上から目線でものを言わないし、それも俺だけではなくみんなに対しても同じようにね。これまで様々なアーティストのアテンド経験があるけれど、その中でもあそこまで一緒にいて気持ちのいいアーティストはSYSTEM 7以外に思いつかない。ちなみに他のアーティストが酷いということではないよ!
 2019年 SYSTEM 7@Peace & One
2019年 SYSTEM 7@UNIT


——SUGIZOさんに関してはどういうところを?

表現へのこだわり方が凄い。SUGIZOさんのアルバム制作にドキュメントフォトグラファーとして関わっていたときに、作品ができるまでの一部始終を見させてもらったんだよ。もう本当に色んな角度からこだわっていて。理想の音を見つけるために時間や労力を惜しまずに、徹底的に納得するまでやっていた。


——ライブに関してもそうですか?

あそこまで完璧を追求する人を俺は見たことがない。具体的に言うと、自分のステージがどのように演出されて見えているのかをひとつひとつ確認していく。リハーサルのときには客席をぐるっと回って確認した後に照明さんに「この何小節目の転換のときにはライティングはこう変えてくれ」とか「この場所では上からじゃなくて後ろから光を出して欲しい」とか伝えて。VJの映像も事前にひとつひとつ綿密な打ち合わせをしているし、音に関してもドームクラスのでかいところでも客席の一番後ろまで行ってどう聞こえているのかを確認してPAの人に伝えている。そうした音楽に対しての向き合い方の他にも、社会活動や環境活動に正面から取り組んでいる姿勢に関してもリスペクトしているよ。
 2015年 SUGIZO@BIGCAT


——そんなSUGIZOさんが取り組んでいる難民支援プロジェクトにKOTAROさんはカメラマンとして参加されていますよね。これはどういった経緯で関わることになったのでしょうか。

ここ10年間くらいずっとSUGIZOさんを撮影してきた流れで声をかけてもらったのがきっかけ。プロジェクト自体は2016年に訪れたヨルダンのシリア難民キャンプ場からはじまって、2018年のパレスチナ訪問から音楽を通した交流を本格的にするようになり、そこから参加させてもらった。他のカメラマンに依頼しても「そんな危ない場所はちょっと無理です」という感じで大体NGみたいなのよ。俺はフリーだしそういう制限はないから。


——実際に行った人が見た光景と、僕らの知っている報道を通したものとは大分認識が違うと思うんです。パレスチナに関してはどういった印象を受けましたか?

パレスチナはヨルダン川西岸地区とガザ地区に分かれていて、そのときに訪れた西岸地区の方なんだけど、みんなが危険だ危険だと言って騒いでいるほど危ない場所ではなかった。そう言っているのはイスラエル側から見たパレスチナの視点であって、むしろ実際にピリピリした空気があったのはイスラエルの方。テルアビブの空港から出るときの強制尋問みたいな入国検査はそのときのツアーで1番緊張した。で、実はこのパレスチナと2019年に行ったイラクの難民キャンプで体験したことが、そのあとの俺のライフスタイルを変えていくきっかけになっているんだよね。それも初めての体験ではなくて2、30年前のパーティーシーンで感じたような、音楽でみんながひとつになって、同じところを見ているような感覚。それをSUGIZOさんたちがライブをしているときに味わうの。


——難民キャンプで?

そう、イラクのクルド人自治区でライブをしたとき。そこに来ていた子供たちの盛り上がった空気感が、昔パーティーで体験したときの一体感と同じだった。俺はその感覚をダンスフロアで受けたときに一瞬泣きそうになるくらい心が動いたんだよね。「うわ、この体験!」って数十年ぶりに体感を思い出して。子供たちが「うぉー!」って何かのエネルギーの塊のようになっている姿に、もう鳥肌が立ってしまって。


——子供たちにとっては初めての音楽体験。

そのピュアなところで起こる人間の力ってやっぱりすげぇなっていうのをそこで改めて学んだっていうか。真っさらな状態の人間に、まったく見たことも聞いたこともない刺激を与えたときに起きる反応はこういうことなんだって。それってもう音楽のジャンルがどうとか関係ないのよ。トランスである必要もないのよ。もっと広い意味で捉えれば、別にパーティーじゃなくてもいいじゃんって。イラクで体験したことでそういう感覚に変わってきた。あと、自分がもともと持っていた難民に関しての見方がこのプロジェクトに参加してから変わったよね。


——どういう風に変わったんですか。そもそも難民キャンプとはどういった場所なのでしょうか。

難民キャンプって聞くとテントや仮設住宅をイメージするでしょ。もちろん国によって成り立ちや環境は違うんだろうけれども、少なくとも俺らが行ったダラシャクランはそうではなかった。シリアの内戦とかで避難を強いられたクルド人が保護されている場所であって、今まではテントが並ぶような場所だったらしいの。そのあと、ようやく国連が入って環境が整備されてきたんだけど、コンクリート作りの家に住みながら外に働きに出て仕事をしている人もいるし、中で商売をはじめている人もいる。そういう状況になっているのは金銭的支援や食料配布がなくなったのが大きくて、それだけ難民生活が長くなっているということでもあるけどね。


——街みたいになっているんですか?

そう。でもキャンプ周りには囲いができていて、一応国連の人たちがセキュリテみたいに外部からガードしている。


——クルド人がこれまで歩んできたルーツを少し調べただけでも凄まじいじゃないですか。独立を望めばイラクから化学兵器によって弾圧されて、その後も大国に利用されては裏切られ続けて。そういった情報から思い浮かべるイメージとKOTAROさんが実際見た光景もまた違いましたか。

うん、実際に行って、彼らのことをかわいそうという目線では見なくなった。もちろん気の毒な状況ではあるけれど、難民キャンプで生活している子供たちと日本の子供たち、どちらの方が幸せか不幸だなんて測れないんだよね。彼らはそこで生まれ育ち、あれが彼らの当たり前であり、そこを日本の物差しでかわいそうと言ってしまうのは俺らのエゴだとも思うし。もしかすると本来の人間らしい生き方ができているという意味においては、クルド人の子供たちの方が日本の子供たちよりも恵まれているのかもしれない。そう思えるくらいの場面が何度もあった。


——行ってみないとわからないですね。

本当に、行かないとわからない。

  
2019年 @イラク・ダラシャクラン難民キャンプ


 2018年 @パレスチナ・アイーダ難民キャンプのビル屋上


——最後に、これまでの経験を通して今後大切にしてきたいことを教えてください。

人との繋がりや縁を大切にする、それを改めて思うかな。結局、パーティーにしてもゴアにしても、誰かが声をかけてくれたおかげで行けた場所だから。そういった繋がりもそうだし、俺自身がこれまでの人生の中で人と人を繋げる間に入ることが結構あったからさ、そこは大切にしていきたい。それにさっき自分のことを行き当たりばったりで生きてきたと話したけれど、言い方を変えればそうした繋がりや縁を大切にしていれば、どんな状況でもなるようにというか、なるべくしてなる所にたどり着くと思うんだよね。そういうのが、生きていく上で今後も大事にしていくことなんじゃないかな。


——長時間のインタビューありがとうございました。何か言い残したことはありますか。

こうやって当時を振り返ってみると、パーティーを通して繋がった人はそのあと一緒に仕事をすることになっても人対人の関係のままでずっと続いているんだよね。だから、今はコロナ禍で様々な環境が以前とは異なってしまい、集まることが困難な時代になってきてしまっているように思うけど、人と直接会う機会はなくしちゃいけないと思っている。そういった意味においても、パーティーという場所は大切だよ。