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DJ K.U.D.O.

今年はKO KIMURA、須永辰緒、DJ EMMAなど、さまざまなジャンルで活躍するDJたちの活動30周年アニバーサリーイヤーとなる節目の年。そんななか、さらに10年増しの活動40周年を迎えるDJ K.U.D.O.。これまでも雑誌媒体、メディアなどの露出を避けてきた氏にDJを始めたきっかけ、K.U.D.O.からARTMANへの経緯。また、活動封印したK.U.D.O.名義での活動をなぜ再開したのかなど、70年代から今日までの東京アンダーグラウンドダンスミュージックシーンの実態が明らかになる。

Interviewer & Photo : KOTARO MABABE

 

 

 
「曲と曲との合間を繋ぐのはミックスではなく「喋り」。当時は曲を紹介してからかけるスタイルが主流だった。」



- 40周年おめでとうございます。計算してみると1975年、僕はまだ小学校1年生、このインタビューを読む側が「そんな頃にDJを!?」と実感できるように下世話な例えを挙げてしまいますが、巷では「ベトナム戦争終結」のニュースが流れ「およげ!たいやきくん」の大ヒット。「タイム・ボカン」シリーズがはじまり、映画で言えば「トラック野郎」シリーズ1作目が公開され、「ジョーズ」、「ロッキー・ホラショー」などが封切られた年です。そう言われても「まだ生まれていない」という読者もいるかもしれませんが…。当時どんなきっかけや状況でDJを始めることになったのですか?そうした経緯も含め、バックグラウンドを教えていただけますか?

2つ上の兄がすでにDJをしていたんですね。そんな兄も影響もあって、子供の頃からブラックミュージックを中心に音楽好きの家族に囲まれながら育ちました。中学生の頃から兄に連れられてThe Temptationsなどのブラックミュージックしかなかった時代に「ハーレム」「アフロレイキ」などのディスコにも足を運んでいました。そんな中、兄から「北海道に友人たちと一緒に店を出すからお前も手伝え!」と言われ、その店でDJを始めたのが1975年のことです。当時は店のスタッフ全員がローテーションでDJをするような仕組みでした。17歳だった僕はまだ客も少ない開店時間のプレイを担当し、その後は受付やバーなど、全員がぐるぐると持ち場を変わるようなスタイルだったんです。当時は大体どこも店にレコードが置いてあって、その中からいろいろな音楽を聴き漁って勉強する感じでした。


- そんな流れでDJをするきっかけが生まれたんですね。その後ブラックミュージックからの流れは、時代性とともに変化していったのでしょうか?

最初はブラックミュージック中心だったのが、だんだん白人プロデューサーの関わってくる作品が世の中に出回ってきて、いわゆるディスコミュージックが全盛になってくるのが80年代に差し掛かる頃か、12インチのレコードが出始めたあたりかな? その頃から時代の流れでディスコミュージックをプレイするようになっていきました。最初の頃は、Salsoul Orchestra辺りがDJや放送局向けのプロモ盤としてしか12インチを出してたような時代だったんだけれど、業界での評判からだんだん一般向けにも12インチのレコードというのが普及し始めたんですよね。その頃はまだ今のようなDJミキサーなどありませんし、ターンテーブルはピッチコントローラーも付いていない時代です。曲と曲との合間を繋ぐのはミックスではなく「喋り」。曲を紹介してからかけるというようなスタイルが主流だったんですよ。


- K.U.D.O.さんもマイク持って喋ってたんですか?

はい、それやれなきゃDJが務まらなかった時代だから。でもその頃から「海外では曲と曲を繋いでいるらしいよ!」という話が入ってきて、僕もミックスを練習するようになっていったんです。といってもまだ当時のターンテーブルにはピッチコントローラーは付いていなかったけれど、徐々にGARRADなど海外のブランドからピッチコントローラーが付くモデルが世にで始めた。それからみんなピッチを合わせて繋ぐということをDJたちが始めたんじゃないかな。ミキサーも簡単な機能なものでしたが、あるにはありましたよ。一般の人が買うには少々値が張るものだったけれど、僕はお店のDJブースを使って練習できる環境でしたから。でも、だんだんつまらなくなってきちゃって。
 

 

 

 
「アメリカに行って思ったのは、彼らは自分たちで楽しもうとしているけれど日本人はこちら側から楽しみ方を提案してあげないと楽しむことができないんじゃないかということ。」




-興味を失うきっかけみたいなのはあったんですか?

もともとブラックミュージックが好きだったから、ディスコブームでかけなければいけないような曲は僕的にはつまらないんですよね。お客さんから「この曲かけてください」と言われたら「はい」といってかけなければならないのが当時のDJの仕事でしたから。そういうのがつまらなくなって。そんなタイミングで<SALSOUL>、<Mercury Records>、やTOM TOM CLUBなんかが所属していた<Sire Records>などを扱う<日本フォノグラム>というオランダのフィリップス傘下のレコード会社に入ることにしたんです。


-そうした環境で、最新の海外からの音楽に真っ先に触れることになるわけですね?

自分たちの扱っている音楽に関してはそういう環境でしたけれど。僕が担当したSanta Esmeraldaの『悲しき願い』という作品なんかも40万枚も売れるような時代だったし、そこでの仕事ではなんだかんだで80万枚くらいレコードを売ったんですが、なんかやっぱりレコード会社で働くという事に面白みを感じられなくなって1年半程で退社して。それで、またDJ業に戻るんです。でもまだ箱付きのDJという状況で、フリーランスでDJが成立する時代にはなっていません。お客さんが求める音楽をかけれないと雇ってもらえない状況でしたから。


-ということは80年代はどっぷりそうした80’sディスコムーブメントの中で過ごされたわけですね?

とはいっても途中1年ぐらいアメリカに行ったりもしましたが。


-それは音楽シーンの視察だったり新しい音源探しみたいなことも兼ねていたんですか?

向こうでクラブなどにも行きましたが、アメリカに行って思ったのは彼らは自分たちで楽しもうとしているけれど日本人はこちら側から楽しみ方を提案してあげないと楽しむことができないんじゃないか? と感じたんです。サンフランシスコで1年過ごして、帰国してまたDJを始めるんですけれど、やっぱり「つまらない」と感じてしまうんです。で、またDJしながらお金を貯めて、次はインドに向かいました。


-その辺りからですか? 僕らの知るDJ K.U.D.O.のストーリーが始まるのは?

う~ん…そういうことになるのかな?あ、でもインドに行く前に、六本木のCLIMAXという店で働いていたことがあって。そこでのニューウェーブとの出会いが、僕にとって「こんな音楽があるのか!!」という音楽的カルチャーショックだったんですよ。その店はそういうニューウェーブだけでなく、レゲエもプレイできる。カッコイイな! と思った曲はなんでもかけられる環境だったんですよね。


-DJとしての新しい扉が開いたのはそのお店との出会いは大きかったわけですね?

そりゃそうだよね。だって今までのディスコでは、客に「マドンナかけろ!」と言われて「はいはい…」と言ってかけなければいけない環境だったわけだから…。その店はすごく自由があったんですよ。僕がインドから戻って来た後1年半位したらそのお店は閉店してしまいましたけど。


-それって、時代よりも先行きすぎちゃってたんですかね?

そうだと思います。大貫憲章が後にツバキハウスで「ロンドンナイト」というのを始めるんですけど、そもそも「ロンドンナイト」を始めたのはCLIMAXだったんですよ。CLIMAXが無くなってしまったからツバキハウスに場所を移したというのが経緯で…。
 

 

 

 
「ベルリンのラブパレードに行って地元の人たちが協力しあって自分たちの手だけでローカルの祭り事を成立させている事に感銘を受け、そういうところが日本にはまだまだ欠けているなと感じました。」




-インドに話を戻してもらって良いですか?

インドは陸路でずっと旅をして、そのままネパールに入ってカトマンズに行って。それからスリランカにも足を伸ばして、最後にタイのコ・パンガンにも行きましたけど。特別ゴアにパーティーを求めて!とか、パンガンでフルムーンパーティー!ということでは全くないし、興味もありませんでした。旅自体の目的がそういうものではなかったので。僕がインドに行こうと思ったきっかけはBhagwan Shree Rajneesh氏と、ビベー・カタンダというお坊さんというか哲学者に影響を受け、そうした思想が生まれる元になった場所に行って体感したかったんです。でも実際に行ってみたら、汚いし、物凄いところだったので最初はびっくりしちゃいましたね。でも結局半年近く居ました。


-ではゴアでの影響から現在の方向に向かって行ったわけでは全くないんですね。帰国後はどうされたんですか?

またディスコでしたね。でも、その頃になると僕なんかは比較的年配の域になっていたので、六本木のザ・ビーという箱だったり、ハイアットリージェンシーの下にあったディスコだったり、ヒルトンホテルの中のディスコだったり、高級店舗に配属されてました。


-その当時でK.U.D.O.さんが年配ということは、周りは20代前半ぐらいの感じですか?

そうですね。だからオーディションから指導まで、DJ教育係みたいなこともしていました。


-その頃になってくると、音源なんかは大分充実し始めてくる頃ではないですか?

その頃だと六本木のWAVEでレコードを漁っていました。そうこうしているうちに「渋谷にCAVEというクラブをオープンする」という話があって、CAVEでDJを始めるようになるんです。箱付きのDJとして雇われ、土曜日を任されることになったのですが、当時はまだハウスが盛り上がっていたので当然週末のクラブではハウスをかけざるを得ない状況でした。お客さんが付くまでは大分時間がかかりましたが、最終的には他のクラブやディスコに比べると盛況だったと思います。そんなこともあって2度ほど警察が入って営業停止になったりもしていました。


-いわゆる風営法的な観点からの営業停止処分だったんですか?

まあそうなんですけど、取り締まりにくる警察が言うには「僕らも通報が入ってしまうと、来ざるを得ないんですよね」って言うんです。どういうことかというと、うちにばかり客が入るから、妬みで他の店舗が通報してたんです。2度目の営業停止処分後の再開の時に「もう、僕の好きな感じでプレイさせてもらえないか?」と掛け合ってみました。CAVEへ移る前に「テクノティック・ギゼ」っていう店がスクエアビルの中にあったんですが、そこの店は当時イギリスからちょっとパンクがかった音楽やYELLOの初期だったり、テクノだったり、一般にはまだ流通していないようなアナログが送られてきてました。それらの影響もあって、お店ではかけれないけれど、自分自身でもテクノのレコードは集めていました。そういう、自分が趣味で集めていたレコードを思う存分プレイできる環境を得ることができたのが、営業停止処分明けのCAVEなんですよね。


-そんなK.U.D.O.コレクションをかけ始めた頃のお客さんの反応ってどうだったんですか?

いきなりテクノはプレイできなかったので、ハウスからだんだん上げていきながら自分のスタイルを入れ込んでいくと、気がつくとフロアからは誰もいなくなってましたね。(笑)


-まだ、一般のハウスを楽しんでいるような日本人には理解してもらえなかったんですかね。


「早すぎる。キツすぎる。」という意見がほとんどでした。


-それが盛り上がるように変わってくるタイミングってどの辺りからなんですか?

Nick Taylorが噂を訊きつけて遊びに来たんです。当時彼の周りにいたトラベラーたちの間でも口コミで噂になって、毎週どんどん外国人が押し寄せるようになってきました。


-まだ日本が景気良かった時代、ジャパンマネーを求めてトラベラーがたくさんいた時代ですね。僕もその時代のトラベラーたちとの交流で、K.U.D.O.さんのパーティーにたどり着いたクチなのでその状況は手に取るようにわかりますし、以前TSUYOSHI君にインタビューした際に「当時バイト先のレストランで働いていた時に、客で来ていたNick Taylorに、DJ K.U.D.O.知ってるか? テクノのすごくかっこいいパーティーがあるから来い!」って半ば無理やり誘われて行ったけど、衝撃を受け今の自分がある!って言っていましたよ。あとは、その当時のCAVEに宇川くんや卓球さんも足を運んでいたようですよ。

まあ、あの当時テクノをレギュラーで演っている箱なんて他にありませんでしたからね。で、気がついたらすごい人数になってて、入りきれなくなって入り口のすぐ横の喫煙エリアまでギュウギュウになって踊っているような状況だったので「もう少し広い場所を作ろう」という流れになって、YELLOWがオープンするんですよ。でも世の中的にはまだハウスが全盛だったので、土曜日はハウスできちんと売り上げを立ててもらいながら、僕は金曜日を担当させてもらい好き勝手にやらせてもらっていました。それが「A.R.T.」というパーティーです。その頃は、本当にヨーロッパのヒッピー連中が多くて、Ray Castleなんかもその頃に出会って。彼にはYellowでイベントをしてもらったこともある。もうCAVEだけでなくうちにも人が遊びに来るようになって、一時は一度に40人くらいヒッピーたちが押し寄せてきちゃったこともありました。


-僕もそんなトラベラーヒッピーたちと寝食共にしていた時代があるので、そのノリはすごくよくわかります。あの頃のああいうエネルギーが渦巻いてる東京は僕の人生の中でも最強に狂っていた時代だと思います。(笑)ちょうどその辺りでようやくテクノやトランスといったジャンルをかける箱がGEOID、ワナ・ダンスなど徐々に増え始めましたよね。Twilight Zoneが始まったのもその辺りですし。

あの時代はいろんな意味で良かったですよね。91年にTOBYと出会って、Dr.MOTEに会いにベルリンのラブパレードに行ってきたんだけれど、あっちはもう完全にテクノというジャンルが確立されているだけでなく、地元の人たちが協力しあって自分たちの手だけでローカルの祭り事を成立させている事に感銘を受けた。そういうところが日本にはまだまだ欠けているなと感じましたね。
 

 

 

 
「「春風」にしても「渚・音楽祭」にしても、ああいった皆が集える場所を作って、広げていくというのはすごく必要な事だと思うんです。」




-たいがいは、みなさんシーンに関わって行くきっかけの多くが「ロンドンでのクラブ体験に衝撃を受けた!」とか「ベルリンのラブパレードに参加して、日本でもこういうの広めたい!」的なものだったり、海外のレコード店に買い付けに行ってみたりというかたちで日本にもシーンを広めようとしているようなケースがほとんどのなか、これまでのお話を伺っていると、K.U.D.O.さんの場合完全に日本にいながら独自のセンスでシーンを築き上げてきたように感じますが。

人のやっている事のマネごとをするのは全く興味がないので。僕の場合、常に自分で考えて常に音楽は聴いているので、その音楽から「今の時代の流れ」というのは察知できるので、それを自分なりに表現していくだけなんですよね。


-そのような立ち位置でのベルリンのシーンはいかがでしたか?

向こうではSven Väthにも会ったんだけど、彼はすでに僕の事を噂で知っていたようですぐに仲良くなって。日本に呼んでプレイしてもらったり、逆に僕をドイツに呼んでくれたりという交流も始まりました。今では彼のレーベルの名前になっているCOCOONは、その当時彼のパーティーの名前だったんですよね。


-そうですね、当時のSven Väthのレーベル名は<EYE-Q>と<Harthouse>でしたよね。レーベルといえば、YELLOWの時代にK.U.D.O.さんご自身もレーベルを運営されていましたよね? クラブがレーベルを運営するということもこれまでの日本のシーンにはなかった新しい動きだったなと当時を振り返って思うのですが。

それはもうYELLOWを立ち上げる際に「スタジオも作って海外に向けて日本のアーティストを輩出できるような環境を作りたい。」というコンセプトがあったので、YELLOWの正式名称は「SPACE LAB YELLOW」となっているんですよね。そういう空間をYELLOWは突き詰めていました。1枚目のコンピレーションにはMASA、KURO、Hiroshi Watanabe、エニトクワ君など現在でも現役で活躍しているアーティストが参加してくれています。そういう当時の東京発信の音の記録が今でも残っているというのは、僕にとっても凄く重要。あとは「場」を作っていくというのもすごく重要で「春風」にしても「渚・音楽祭」にしても、ああいった、皆が集える場所を作って、広げていくというのはすごく必要な事だと思うんです。


-しかしながら、徐々にYELLOWでプレイしなくなっていき、しまいにはDJ K.U.D.O.を封印し、ARTMANを名乗りアンビエントシーンへと向かっていきますが、その当時何が起きたのですか?

風営法の規制がどんどん厳しくなっていき、YELLOW自体が24時までしか営業できなくなってしまったんです。そんな流れもあるなか、自分自身もいろんな事の焼き直しでしかないテクノには音楽的に飽き始めていたし、ほかの事をやりたくなってきてた。時を同じくして、クラブが24時で閉まり始める頃、時代の流れはどんどん野外イベントにシフトし始めてきたんです。そんな中、DJ K.U.D.O.の名前のままアンビエントのDJとかをしちゃうと、パーティーが終わってからお客さんたちにハグされながらも耳元で「ダンスしたかったわ!」とか言われちゃう。そこで名前分けしないとマズイなと思ってARTMANを名乗り始めたんです。


-クラブではなかなかアンビエントって成立しにくいですけれど、野外イベントにおいては、チルスペースはすごく威力を発揮するというか、今ではそうしたエリアをどの野外フェスでも設けるのが当たり前になってきてますよね。K.U.D.O.さんがアンビエントをやりたいと思い始めた頃と、時代の流れ的に野外という場での求められた空間演出の場が相互の関係がちょうど合致したタイミングだったんですね。

さっき言ったビベー・カタンダの書いた本の中にいつも出てくる言葉があって「手段と目的を一つにしなさい」というものがあるのだけれど、僕は何をするにもそれを心がけている。目的をアンビエントの場を成立させるという事に絞ってそのプロセスをどのようにすればいいかを突き詰めていけば、必ず目的は達成されるんです。


-ちょっと皮肉めいているかもしれませんが、もし風営法の圧迫がなく朝までクラブ営業ができていたら、野外イベントやアンビエントの成熟は遅れていたんでしょうかね?

いや、もうそれは時代性の問題で、遅かれ早かれあのタイミングだったと思います。海外ではすでに野外フェスは当たり前に行われて、それを体験してきた日本人も増えてきてましたし。人間、意識が変わればあっという間に状況も変化していく。クラブの息苦しい空間よりも、星空の広大な場所のほうが気持ちいいのは当たり前なんです。一度それを体験してしまったら、もうそういう意識でしか物事を考えなくなりますよね…。


-ちなみにK.U.D.O.さんが初めての野外でのプレイしたのはどこだったんですか?

マユリちゃんが伊豆オートキャンプ銀河でやったイベントだったと思います。
 

 

 

 
「皆が一丸となって協力しあってシーンを作り上げていくしかない。生きていく上で、祭り事は必要。」



-すみません、今さらですがDJ K.U.D.O.からARTMANに名義を変えた事で思い出しちゃったので聞かせてください。そもそもDJ K.U.D.O.を名乗り始めたきっかけや、KUDOの間に「.」が入っていることに何か意味が込められているのか?

まあ箱に雇われていたディスコ時代なんて、DJの名前なんてどうでも良いとされていたので、その頃はDJの名前なんて名乗ってなかったんですよね。そういうことでいうと、CAVEで「トランスナイト」を始めるタイミングでDJ K.U.D.O.を名乗り始めました。苗字の工藤にもかけて、「.」を入れたのはKUDO’s Unlimited Dance Organisationの略でもあり、フライヤーに名前を掲載するときの見栄えのバランス的にDJ KUDOとするよりも「.」を入れることで広がりが出てバランスが良くなると思ったんです。


-そういう発想がある時点で、デザイン的なセンスも優れているんでしょうね。YELLOWのロゴのデザインもK.U.D.O.さんが手がけたんですよね?

まあ、あれは「誰かやらないかなあ?」みたいな流れの中で「俺やってみるよ!」と手を挙げてコンピューターで作ったらできちゃったんですけどね。


-そんな簡単にできちゃうもんだったんですか?

コンピューターは8Bitの時代から使っていたんだけど、当時はまだソフトなんて無いから独学で勉強してプログラミングして数式入力してたら作れちゃったんですよね。


-それって、相当すごいことのように思いますが。楽曲制作などもそういうノリで作れてしまうんでしょうけれど、2001年にリリースされた日本アンビエント史の銘盤『Re:Sort』以降は作品を発表されていないようですが。

忙しくてなかなか楽曲制作をする時間は作れ無いんですよね。


-そろそろ最後の質問になりますが、これまで封印していた DJ K.U.D.O.での活動を、再開するようになったきっかけは何だったんですか?

それは「311」以降ですね。「311」以降の日本には、癒しだけではどうにもなら無いと感じました。この閉塞感のある日本を元気にしていくにはやっぱりダンスミュージックをプレイしなければいけないんじゃないかと考えるようになって。まあ、精力的にDJ K.U.D.O.でやっていくというようなスタンスではないけれど、徐々にプレイの場を増やしていければと考えています。今回の40周年のパーティーでは、当時プレイしていたアナログ音源だけを使ってみようと考えています。


-それはかなり楽しみなセットです。僕もその日はノゲ☆タロウ名義で出演させてもらいますが、純粋にダンスフロアで楽しませてもらいます。40周年後のビジョンは何かありますか?

今や大掛かりな事を仕込むバイタリティのある人がいなくなってしまったけれど「RAINBOW 2000」のような事がまたできるようになればいいなと思っています。そのためには皆が一丸となって協力しあってシーンを作り上げていくしかないと思っています。生きていく上で、祭り事は必要ですよ。


-貴重な話をありがとうございました。




– Event Information –

タイトル:DJ Artman aka DJ K.U.D.O 40th Anniversary "A.R.T."
開催日:2015-10-10(Sat)
時間:12:00
料金:前売¥4,800 当日:¥6000 (中学生以下のお子様は無料)
会場: みずがき山リーゼンヒュッテ / Mizugaki Riesen Hutte - 日本山梨県
出演者:
Live: Freaky Machine, Soft, Based on Kyoto, K.U.R.O, Waveshaper, Ebizo, Enitokwa, Nogera, ノゲ☆タロウ, Sine6, Astronoidnos a.k.a. Makio, Guusun
DJs: DJ K.U.D.O, Mixmaster Morris(UK), DJTSUYOSHI, Masa, Ree.k, DJ Yorgurt, Shinkichi,  Funkygong, ナカムライタル, Toby, Emile(白檀) Anny,  YUTA, Aym-jet, Podd, Hobo Brazil, Tech-shige,  Peenuts, Mijinko and more...

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