INTERVIEWS

Satoshi Tomiie

日本を代表するDJ/プロデューサーであり、世界中で活躍するSatoshi Tomiieが16年ぶりとなるオリジナルアルバム『NEW DAY』をリリースする。長いインタバールを経て発表された今作に込められた思いや制作に至るまでの経緯は一体どのようなものだったのか。そして、DJとして彼が世界で感じてきたこと、さらには現在に至るまでの彼の生い立ちから今は亡きFrankie Knucklesとの出会いまで余すことなくたっぷりと語ってもらった。
 

 

 

 
- ストーリーそのものは聴く人の解釈で自由に捉えてもらえたらいいなと思っています。-



- オリジナルアルバムとしては『FULL LICK』以来16年ぶりになられると思いますが、この長いインターバルを経て今作を出すモチベーション、ないしはきっかけになったことを教えてください。
 

毎年シングルやEPをリリースしたりリミックスをやったりはしていたのですが、DJツアーがもの凄く忙しかったりニューヨークのスタジオが出来るまでに時間がかかったり、スタジオにいるまとまった時間がとれなかったり、制作的には微妙な時期が何年も続きました。それでも音楽的にインスパイアされなかったということはなくて、ツアーなどの合間に曲をスケッチの形でたくさん書きためていました。ようやく機が熟したという感じですね。DJ/プロデューサーによっては人を雇って音楽を作らせて、自分がDJツアー中でも制作が進むというやり方を取る人もいますが、実際に自分で機材を触って制作するやり方が好きなので3ヶ月ぶっ続けで旅が続くと一曲にかかる時間も結構なものになったりします。アルバムの6曲目の「Thursday, 2am」とかもだいぶ前にスケッチを作っていたものですが、曲にしたのは最近でした。 

 

 


- 『New Day』には’12年に<SAW Recordings>から発表した「Backside Waves EP」の2曲が収録されています。アルバム構想はこのEPが始点だったのでしょうか?
 

あのEPは今回のアルバムへの通過地点でした。今回収録の「Wave Side Back」は「Backside Wave」をさらにアブストラクトでLoopyなものに進化させた作品になっています。

 

 


- 『New Day』のアルバムコンセプトを教えてください。タイトルやジャケットに込められた意味やアイディアもございましたらお聞かせ下さい。
 

このアルバムは全体で一つの抽象的なストーリーと考えています。アブストラクトな12の「オブジェクト」が「章」となってストーリーを形作っているというコンセプトですが、ストーリーそのものは聴く人の解釈で自由に捉えてもらえたらいいなと思っています。アートワークは”Abstract Nature” “Abstract Architecture”をコンセプトにアルゼンチン出身のアーティストPilar Zetaにイメージしてもらいました。前作はアートワークに建築のコラージュを使いましたが、いまでも建築物のイメージを、アブストラクトに素材としている写真やアートは大好きです。建築という目的があって作られたもののイメージが、アーティストの解釈を通して別の意味を持つようになるとワクワクしますね。見る人によって解釈はさまざま。音楽でそういう表現をしたいなといつも考えています。

 

 


- ボーカルトラックはタイトル曲の「New Day」のみですが、コマーシャル層へのアピールはどの程度なのでしょうか?
 

今回はフロア向けの曲を12曲集めたものではなくて、アルバムとして、最初から最後まで一つのまとまりとしての作品を作りたかったのです。フロア向けのバージョンはアルバムからカットして行くシングルやサンプラーなどでリミックスという形で表現しようと思いました。 「New Day」もその流れの中の一曲で、自分のやりたいことをそのコンセプトに素直に作ったものなので、この曲も含め、アルバムを通しても「コマーシャル層へのアピール」は全く考えませんでした。

 

 


- その「New Day」のボーカルに、バンドCaribouのJohn Schersalを起用した意図、決め手はなんだったのでしょうか?
 

この曲を作っていた時に、ボーカルを乗せたらいいかもしれないと考えていたんですが、たまたまジョンとは共通の友人がいて、彼を強く勧められてお願いしてみたんです。快く引き受けてくれて、実際に彼のボーカルが見事にハマったんです。
今回もそうでしたがキャリアの初めからオーガニックな関係というのか、自然な流れで人と出会って繋がり、作品を作ってきました。Frankie Knucklesとの出会いもそうですし、<DEF MIX>や<SAW Recordings>も自然な流れで繋がってきました。そういうオーガニックな繋がりが自分的には一番クリエイティブな流れでもっとも重要なことだと思っています。

 

 


-『ES』の頃に「80年代の頃のアシッド/ピアノ・ハウスの先祖帰りが新しい形で復活」したトラックを「今(=05年)」の感じで収録したと仰ってましたが、『New Day』の幾曲で窺える80年代半ば~後半のシカゴ・ハウスのテイストというのは、トミイエさんにとって、或いはいまのハウス・シーン(※地域で異なるかもしれませんが)のなかでどういった位置づけなのでしょうか?
 

シカゴ・ハウスやデトロイトの音楽は今のハウスやテクノの重要な「骨格」の一部であり、もちろん自分の音楽においてもそうだし、このアルバムに関しても骨格となっているものなのです。いつの時代も流行的な要素は必ずあって、ある意味ファッション的な意味で音楽の「外見」は変わるけど、中身、特にコアな部分はいつでも同じだと思っています。 DJプレイでも、興味を惹かれればいろんなものにトライするけど、根底にあるのはいつも同じ質感のモノな気がします。

 

 


- レコーディングをロンドンの“Konk Studio”でなさっているようですが、ここを選ばれた理由を教えてください。
 

これもまたオーガニックな繋がりでした。以前一緒に仕事をした元Sneaker Pimpsのボーカルであるケリーとロンドンで久々に会った時にもらった彼女の最新アルバムを聴いていたら、いい感じのストリングスセクションが入っていたんです。
今回のアルバムの最後の曲「Cucica Rossa」でもストリングスが入っているんですが、25人編成のストリングスを使って1発録りをやらせてもらえた前回のアルバムのようにはいかないので、どうしようかと考えあぐねていたところでした。なにしろ、弦の録音は大人数のプレイヤーを同じ場所に集めなければいけないので、お金も相当かかります。ケリーに彼女のアルバムで使った弦について聞いたら、なんと一人のチェロプレイヤーが第1バイオリンからコントラバスまでチェロ1本で演奏したと聞いて速攻連絡を入れました。運良くやってもらえることになって、彼がいくつかのスタジオの候補から今回の弦の録音用に“Konk Studio”を選んでくれたんです。
年季の入ったニーヴ8040という卓を通して録音していったのですが、トラックごとに違う質感になるように違うマイクを何本も立てたり、距離を変えたりして1本ずつ録っていきました。本当に低い音域の演奏はマルチトラックのテープレコーダーの回転数を早くしたり、オーケストラを4時間ほどで組み上げていく作業を見ながら、エンジニアも含めこの人たちすげえ才能あるなぁと思っているうちに、ふとこのスタジオ全体を「サミングミキサー」にしたら面白いんじゃないかと思いました。ここはもともとKinksが使っていたスタジオなんですがヴィンテージのアウトボードが現役で置いてあったりするんです。基本的には自分のスタジオで全部できてしまうんですが、こういうスタジオを使ってミックスダウンをしたのは数年ぶりでまた新鮮な感じでした。In The BoxのLaptopだけでの制作も便利でいいですが、ヴィンテージの機材はいいなぁと改めて再認識しました。こういうのはアガりますね! その興奮を音に込められたんじゃないかと思います。

 

 


- 今回のアルバム・リリース元(海外)を決めた要因について教えてください。
 

Abstract Architectureはニューヨーク/ベルリンベースの自分の新しいレーベルなんです。1発目のリリースを自分のアルバムにしたかったんです。

 

 


- アルバム収録曲のリミックスはご自身で指名できるのでしょうか? もしできるとしたら、この曲はこのクリエイターにという構想があれば教えてください
 

自分のレーベルなので、もちろん自由にクリエイティブコントロールができます。アルバムからシングルを切って行くのにあたって、リミキサーには自分が好きな音を作る人を選びました。Ron Trent、Chez Damierなどシカゴの重鎮たちからFred P、Maayan Nidamなどのベルリン注目株まで、曲ごとに候補をハメていってオファーしていきました。

 

 


- ソフト/ハードの進歩はトミイエさんの楽曲制作にどういった影響を与えましたか? 『New Day』制作に欠かせなかったツールに関して、10数年前との比較があると助かります。
 

今ではどこにいてもコンピューターで曲を作れるようになりましたが、コンピューターでバーチャルになんでもできてしまう環境はクリエイティビティー的には逆に「不自由」な環境とも言えるんじゃないでしょうか。何年も前には考えられなかった制作環境がコンピューター上で可能になったことは素晴らしい反面、なんでも可能というのはある意味での「不自由さ」となっている気がします。というのはある程度の制約はクリエイティビティのご飯だと思っているからなのですが、近年ハードウェアに回帰していったのは、そういった「なんでもできる環境」に対する反応だと思います。
人間は本来、手で触って作ることが好きで、バーチャルに何でもできてしまうと、はじめはその便利さと新しさに興奮するけど、そのうちにつまらなくなってしまうんじゃないかと思うのです。コンピューター上に最初から用意されてるものを組み合わせて作るのは最初はもちろん楽しいけど、だんだんチャレンジしなくなっちゃうんじゃないかという気がしますね。
ここ数年の間にあまり登場する機会がなかったハードウェアをまた使い始めました。実際に手で触ってノブやスライダーをいじること、10本の指を使って即興で音を変えたり作ったりすることはやっぱり純粋に楽しいですね。以前と違うことはハードウェアとDAWの組み合わせで「ループされたフレーズの瞬間」を捉えてそれを操作することが圧倒的に簡単になったことで、テクノロジーの進化がハードウェア復活の手助けになったということは面白いと思います。
今回のアルバム制作でRolandのJupiter-8が大活躍したのですが、このシンセがデビューした2インチテープの時代にできなかった、たとえば、コンピューターにハードウェアを同期させて、アルペジエーターを手で弾いてそのまま録ったものを素早くマニュピレートするようなことが簡単にできるようになったことは、音楽制作のプロセスのみならず音楽そのものにも影響を与えたんじゃないかと思っています。ハードウェアは、以前は使わなければ音楽が作れなかったものからテクノロジーの進歩により制作手段のチョイスの一つになりました。特にヴィンテージシンセ等はその制約からDAWと組み合わせることによって解放されて、120%面白いものになっていると思います。今回JP8のDCBが壊れてしまって、結局シーケンサーが使えずに手弾きせざるを得なくなったことで、逆にグルーヴ感が違ったものになっていると思います。そういうのが好きですね。

 

 


- <SAW Recordings>を立ち上げて15年、運営者として、有意義、あるいは困難(大変)だったことをそれぞれ挙げてください。
 

<SAW Recordings>を立ち上げたのは2000年、レーベルの歴史は音楽業界の動きがテクノロジーと連動して特に激しかった時代にちょうど重なります。当時はまだレコードをプレスすることがダンスミュージックのレーベルとして音楽をリリースするメインの方法でした。2001年9.11の後、世界的に少しずつレコードの売上が落ちていき、デジタル配信と違法ダウンロードがさらにレコードビジネスの状況を変えていったなかで揉まれてきたので、いろいろと勉強させられました。
当時はレコードが1タイトル1万枚売れても特別でない、それが普通の状況だったんですが、今は数百枚の世界ですからね。最近ではレコードが見直されるようになって、リプレスを重ねてそれなりの数になるものもあるけど、イニシャルで1万枚とかはありえないでしょうね。レーベル運営そのものは苦労もありますが、自分の活動のホームベースを持てること、さらにはアーティストをシーンに紹介することを通して、かつて自分を紹介してくれたインダストリーに対する恩返し的な要素も有意義に思える部分です。
<SAW Recordings>の立ち上げの頃は、もちろんレコードが中心で当時はCDJが出始めた頃だったんですが、Pioneer CDJ1000の登場でやがてCD中心でDJするようになり、さらにコンピューターへ移行したDJはインターナルミックスでピッチを合わせることすらしなくていいようになりました。その分、エフェクト/ループマニュピレーション等、他のことが同時にできるようになってテクノロジーがDJのやり方を変えていったのは事実です。最初の頃は新しい技術が面白くてどんどん取り入れていったのですが、それもある意味「オートパイロット」化してきた感じがして今ではまたレコードを混ぜてプレイしています。 レコードオンリーでしかリリースされてないいい曲も結構あるので少し前まではそれもPCに取り込んでプレイしていましたが、結構な作業で・・・。だったらレコードをそのままかければいいという発想になったんですが、それと同時にレコードでDJする楽しさも再発見したりしています。これもハードウェア回帰に通じるところがあるんじゃないかと思っています。ライブ演奏のように曲を即興でループしてレイヤーしていったり、コンピューターならではのプレイも楽しいのですが、やっぱりレコードでのプレイの「DJしてる感」は間違いなく大きいですね。どちらがいいというよりも、全く違うダイレクションなんだと思います。DJをする方法だけでとても急激な変化があったし、そういう激動の時代にレーベルをやって学んできたことは大きかったと思います。それを活かしてこれからもレーベル運営をしていきたいと思ってます。

 

 


- 音楽の原体験についてお聞かせください。また、トミイエさんが最初に聴いたハウスミュージックを教えてください。それは今作に影響を及ぼしていますか? もしそうであればどの曲ですか?
 

特にあまり音楽的な家庭ではありませんでした。 音楽にどっぷり浸って育ったわけでもないのですが、おもしろいな!と思ったのは中学生の時で、友人が買ったシンセに興味を持ったんです。当時YMOやPlasticsが流行っていたし、メカとしてのシンセで音楽が作れるということを純粋に面白いと思いました。その友人がシンセのロジック、エンベロープ、フィルターとかの構造を教えてくれた記憶はいまでも残っています。でも多重録音が出来ない環境で良い音色が作れても、シンセ1つだけではどうにもならないし、シーケンサーも含めると子供の自分では到底買えないし、これは無理だなと思っていました。シンセの次に楽しそうだなと思ったドラム。一度火がついてしまい、とにかく楽器がやりたくてなんとか親を説得してみたものの、もちろん却下されました。ドラムセットなんてあの住環境で(普通の家)自分が親なら間違いなく却下するでしょう(笑)。しかし楽器をやりたいという熱は冷めず、ギターはアンプがうるさいからダメでしたけど、最終的にピアノならOKとなり、めでたく熱中できるものを手に入れました。
最初は近所のお姉さんにクラシックを少し習っていたんですが、クラシックはすでに作曲されたものを演奏する音楽で、自分の解釈で弾けるようになるまで相当な時間がかかり、堅苦しく感じていました。それで中2くらいのときに、自由さに惹かれてジャズを始めました。Bill Evansなkんかのモダンジャズをラジオからテープに録音して、自分でコードやスケールとかを研究したんです。毎日、家で6時間くらい聴いたり弾いたりしていましたが、その時の経験がいまでも活かされていると思います。だから、モノシンセと、ピアノでのジャズが音楽の原体験ですね。ちなみに最初のシンセはYAMAHAのCS01でした。

ハウスの前にはヒップホップやファンクなどの黒人音楽に興味を持っていましたが、それはジャズから繋がっているんだと思います。Herbie Hancockなんかは早くからシンセを取り入れていて、Arp Odyssey というシンセの名前を知ったのも、彼のアルバム『Head Hunters 』(1973)を通してでした。トラディショナルなジャズと平行して彼がやっていたエレクトロニックかつファンキーな路線はものすごく興味深くて、俺も大人になったらArp OdysseyもClavinetもRhodes Pianoもゲットしてやると誓ったものです。
大学生になってからはよくわからないけどいろいろ聴いてやろうということで、渋谷にRoger TroutmanとかCameoとかSOS Bandとかのコンサートを見に行きました。その頃のバンドメンバーにPrince好きがいた影響で、ミネアポリスファンクにも興味を持っていきました。次第にヒップホップが東京でも紹介され、ターンテーブルが楽器になることにものすごい衝撃を受けたんです。当時持っていた普通に音楽を聴くためのターンテーブルもテクニクスでしたが一体どうやって音を出しているのかと、スクラッチという手法に驚いたんです。やがてSL1200というターンテーブルがスタンダードということを突き止め、それを2台手に入れて「Change The Beat」をスクラッチしまくって納得しました。『Ultimate Breaks & Beats』という超有名なブートコンピレーションを手に入れて、ブレイクビーツ2枚使いをするのも覚えて、その時やってたバンドにターンテーブルとかブレイクビーツの要素も取り入れたりしてたんです。ライブにはタンテ2台とミキサー、シンセを持って行ってました。「あの音はこれか!」と突き止めたTR-808やTR-909と4チャンネルのマルチトラックのカセットを手に入れて「多重録音」で曲作りを始めたんですが、さすがにカセット4CHでは音がしょぼくて、同じ機材を使っているはずの初期の<Def Jam>の808の音の太さが不思議だったのを今でも覚えてます。ドラムマシンでリズムを入れて、ブレイクビーツをマニュアルで重ねて、その上にピアノやシンセを録音したりして曲を作ってましたね。

ちょっとヒップホップをかじってみたものの、ヒップホップは音楽以前に文化的要素が強くて、そのド真ん中に自分が入って行ける感じが全くしなくて、これは違うかもと感じていました。実際にやっていたことはヒップホップの要素を取り入れた音楽で、これを発展させるのも面白いとは思ったんですが、ちょうどその頃友人に「ハウスって言う新しい音楽知ってるか」とシカゴのラジオで流れてた誰かのDJミックスを聴かせてもらいました。今まで聞いたことのない独特のグルーヴ感、なんだかよくわからないけど「かっこいい!」と感じました。当時のヒップホップのようにラッパーが中心ではなく、ドラムマシンの反復グルーブ主体のほぼインストの音楽であり、しかもよく知ってる自分と同じドラムマシンで作られてるところもトラックメーカーとしてかなり興味を引かれた部分ではありました。とにかくここからどんどんハウスという音楽にのめり込んでいきました。

 

 


- 今が良くないのであれば将来は良くなるだろうと思って楽観視はしています。- 


- トミイエさんはヨーロッパ、南米、中米、地元(NYC)ではおのおの、どんなタイプのDJプレイ(たとえばガラージとかテック・ハウスとかプログレッシヴ・ハウス)をクラウドに期待されていますか? また、ここ最近でホットだと思う街はどこでしょうか?
 

どうなんでしょうね。場所によってこういうスタイルを求められているというのもそんなにない気もしますが。お客さんは自分たちが知っている僕の過去の曲を求めているのかもしれないですが、常に新しい曲をかけ続けることをスタイルにしているので、もしかしたら彼らの期待からズレているところもあるのかもしれませんね。ポッドキャストをここ数年続けていますが、その理由は現在こういう曲をかけているというのを分かってもらいたいからでもあります。
新しいモノに次へと行きたい気持ちがいつも強いのですが、バランスも重要なのはよく分かっているので自分の今のカラーを出しつつ、「俺の選曲を聞け!」と完全に突き放すことはせずにちょっとした駆け引きというか、クラウドをグルーヴで引っ張るような選曲を心がけています。
ある種、クラブは音楽を通じた客とのコミュニケーション、エネルギー交換の場でもあるんだと思っています。あと、ロングセットだといろいろなことができますね。古い曲を混ぜてみたり、実験的なことも織り交ぜることができますし、自分が進みたい道とうまいバランスが取れます。
ずっと前から思っていますが、プレイしていて面白いのはアルゼンチンですね。客のエネルギーがすごいんです。ノリがイタリアのクラウドに似ていると思いますが、南米だからなのかイタリアよりもさらにアツい感じです。純粋に街として面白かったところはたくさんありますが、意外性と言う意味で最近ではブタペストが面白かったですね。もしかしたらこれからどんどんシーンが面白くなって行く街なのかも知れません。

 

 


- 年に複数回日本に戻られてDJなさっていますが、近年の日本のクラバーやシーンの印象を、 たとえば90年代、00年代と比べどう変化していると感じていますか?
 

今は年に2回のペースで日本に帰っています。常にいるわけではないので、印象はつまみ食い的な感じですが、90年代のハウスが盛り上がっていくタイミングではクラブにものすごい勢いがあったし、音楽もどんどんおもしろくなっていった時期でした。もちろんネットもなかったから、客も実際にクラブに行ってみないと分からないというなかで、現場で情報を得ていたというのも今と大きく違うところですね。
日本の状況としては21世紀に入ってから緩やかに落ちていった感じがします。多くの制限の中で楽しんでいる人はもちろん沢山いるけど、ジェネレーションが変わったことも影響してるせいか、誰もがクラブに行くといった感じはなくなっていった気がします。クラブにはいつも来ている客お客さんやいつも会えるスタッフがいたのに、今ではクラブのコンテンツによってお客さんが全く変わり、場合によってはガラガラなこともある。そんな話もよく聞きます。貸しホール的な感じで、クラブに付いていたお客さんが減ってしまった印象ですね。そこに行くと誰々に会えるということがなくなってしまった感じがします。クラブに行かなくても、ネットで全部わかった気になれちゃうからなのかもしれません。でも、今が良くないのであれば将来は良くなるだろうと思って楽観視はしています。

 

 


- 現在、お住まいのニューヨークのナイトクラブ、ダンスミュージックインダストリー(ストア、レーベル、ディストリビューター、オーガナイザー、メディア)の状況を、トミイエさんの私見で結構ですのでガイドをして頂けますでしょうか(アルバム制作におけるバックグラウンドのひとつとして)。
 

ずっと前にマンハッタンのロウアーイーストサイドやウェストサイドでやっていたウェアハウスパーティなどは一時廃れたんですが、ブルックリンに移動して復活しました。珍しくない普通のパーティになってしまいましたが、復活したての時期のシークレットパーティーは会場でさえ完全な口コミだったので、あのシークレット感が人気に火をつけた要因の一つだと思います。
今ではネットで普通に告知されているものがほとんどですが、面白いパーティはもちろんいくつもあります。“Output”や“Verboten”“やGood Room”などのブルックリンにできたクラブが人気で、ブルックリンでクラブに行くことが特別でもなんでもない状況になったことは、本当に時代が変わったと感じますね。
パーティのクオリティも含め音楽シーンにとっては悪くないと思いますが90年代初頭のニューヨーク、シカゴ、デトロイトのようにすごいクリエイターがどんどん出てくる街があって世界のシーンをリードするという感じはもうないかもしれません。シーンの牽引役は完全にヨーロッパに移って随分時間が経っていると思います。

 

 


- 90年代は猛烈な数のリミックス、制作作業を請け負ってらっしゃいましたが、00年代以降のオファーの数はいかがですか? またオファーにおける制作とDJのバランスはどのぐらいの比率ですか?
 

2001年以降、レコードリリースの減少傾向が始まりました。CDも含めフィジカルなリリースやセールスが減って、当然レコード会社の制作予算も減っていきました。リミックスはプロモーション予算から制作費が出るため、プロモーションにかけられる金額が減っていけば自然とリミックスそのものの数も減る結果になっていきました。
今とは違い、DJ/プロデューサーにとって90年代は大物ミュージシャンのリミックスを手がけることが1つのステータスで、メインストリームのポップアーティストの曲がアンダーグラウンドな曲に生まれ変わるというプロセスが新鮮な時代でしたね。もちろん今でもリミックスそのものはありますが、90年代のリミックス文化は基本的に崩壊してしまいました。2000年以降は自分のレーベルを立ち上げたこともあってレーベルにサインした曲のリミックスや、他のインディレーベルのためのリミックスなど、それまでとは若干違う方向にシフトしていきました。以前はスタジオワークがかなりの割合で収入源でしたが、今ではほぼ100%がDJギグからとなってしまいましたね。

 

 


- 大物ミュージシャンのリミックスを多く手がけられていますが、思い出深いエピソードがありましたらお聞かせください。
 

誰のどの曲ということではないのですが、2インチ/マルチトラック(ドラムやベースといった音が48トラック別々に録音されたもの)がレコード会社から送られてきて、各々のトラックを最初に聞くときにオリジナルのレコーディングセッションの情景が頭に浮かんだりして興奮したのを覚えてます。普段はステレオにミックスされた完成品を聞いているものがバラバラの、例えば歌だけアカペラ状態とかのパーツで聞けて、これをどういう風に変えていこうかと考えるプロセスはとても楽しかったですね。ただ考えすぎてよく壁にぶつかって悩んでました(笑)。

 

 


- これまでのご自身の膨大な仕事のなかから、もっともお気に入りの作品(ひとつに絞らなくても大丈夫です)を挙げて頂きつつ、その理由、ないしはエピソードを教えてください。
 

オリジナルの曲としては<Strictly Rhythm>から出たLoop 7の「The Theme」がその一つですね。モラレス(David Morales)の家に居候していた時にその場にあった機材で作った曲で、今でも時々 DJの時にかけてます。お気に入りではありますが、今まで自分が作ってきた曲で「こりゃ完璧だ」と思ったことはまだないんです。ただ、完璧だとは思わないけど、最終的にはそれが個性になったと思っています。

 

 


- 人のスタイルの真似をしようとしても結局は真似しきれないということが個性に発展することも多いんじゃないかと思うし、それが「影響を受けた」ということでもあるはず。- 



- バックグラウンドについて質問させて下さい。ご出身は東京と伺っていますが、どのあたりで幼少期を過ごされたのでしょうか?
 

保谷市(いまは西東京市)でした。東京と言っても周りには家と畑しかなかったような典型的な郊外の新興住宅地で、本当にあらゆる刺激がなかった環境でした。外国に住んだり仕事で世界中を飛び回ることになるなんて想像してなかった。というか、刺激がないことしか知らない子供にそんなことを想像できるはずもありませんでしたが。10歳の頃、父親の都合で家族で1年間オーストラリアのシドニーに住んで、初めて外の世界を見たんですが、そのときも慣れ親しんだ土地を一年も離れるなんて面倒くさいなと思ったりもしました。でも、今考えれば本当に父親に感謝です。そんな刺激がないなかで、中学生の時の友達のシンセ自慢から電子楽器への興味が始まってますから、刺激がなかったことが逆に幸いしたのかもしれません(笑)。

 

 


- 芸術に関して、家庭環境はどのような感じでしたでしょうか?
 

母方の遠縁に有名な音楽家/ミュージシャンがいて、母親がそういう血筋を子供に自慢していた割には地味な芸術環境でした(笑)。母親もその流れで昔バイオリンを習ったりしていたようで、実際に家にバイオリンがありましたが、弾いてるのを聞いた覚えがなかったので大したことないに決まってます(笑)。じいさんがクラシック好きで、家にその当時としては立派な家具調のステレオがありましたが、趣味で聞いていた程度だと思います。今でも僕以外に音楽をやっている親戚がいないので、一族の中ではまさにBlack Sheepですね(笑)。

 

 


- 早稲田大学のご出身ですが大学時代はどのように過ごされていましたか?
 

大学時代は友人と音楽ばかりやっていました。大学が高田馬場だったので、帰りに中野の中古楽器屋に通ってTR-909(今でも使ってます)とか808(友達に貸したまま行方不明に(泣))をゲットしたり、友達と一緒にやってたバンドにそういう機材やターンテーブルを持ち込んだりして。
DJの真似事もその頃に始めて、最初はヒップホップでしたが、ドラムマシンでビートを打ち込んで、その上にレコードのブレイクビーツを手動で録音していって、またその上にスクラッチをして、さらに居間にあった生ピアノにマイクを立てて録音して、カセット4トラックで簡単なトラックを作ったり。そのころから音楽制作とDJが同時進行していた感じでした。ハウスを知ってからは使われていた機材への興味もあって、ただそのときに既に持っていたから、のめり込むのに時間はかかりませんでした。
今でもお世話になってる木村コウ君に出会ったのもそのころで、このアルバムに収録している「Thursday, 2 am」は水曜の“西麻布TOLOS”で彼がプレイしていた一連のシカゴ・ハウスから受けた強烈な影響を形にしたものです。とにかく10代の終わりは音楽漬けでしたね。新しい音楽を聴く場所の一つとして、クラブに通っていた感じです。

 

 


- 2014年3月31日に偉大なるハウスの父、Frankie Knucklesが亡くなられました。改めて彼との出逢いについてお聞かせください。
 

出会ったのは大学生の時、彼の初来日公演のお手伝いをした時でした。DJしたかったんですが、DJはさせてもらえなかった(笑)。かわりにジャパンツアーのテーマ曲(資生堂スポンサーのパーティでした)を作らせてもらって、それが彼に音楽を聴いてもらえる初めての機会でした。 当時、英語は全然ダメだったのでコミュニケーションを取るのに苦労しましたが、なんか音楽を気に入ってもらえたことは分かったので、調子に乗ってデモテープを渡しに行ったのが初NYでした。
彼は音楽のセンスだけでなくDJとしての説得力やカリスマ性がスゴい人で、こういう天性のモノはどんなに頑張ってもどうしようもないけど、音楽のセンスのエッセンスなんかは学べるかもしれないと思ってました。彼のDJセットを聞きに行くことはまさに「学校」でしたね。探してもそう簡単に見つからなかった「先生」だと思います。まさに「オーガニックな繋がり」。DJ中に「この曲なに?」と聞きに行くと「2枚あるからあげるよ!」とレコードをその場でくれたりして、大切に持ち帰ったのを今でも覚えています。

 

 


- トミイエさんは若き日にNYへ移住され、道なき道を切り拓かれたまさに先駆者であると考えています。最後に、これから海外に出たいと考えている若きアーティストたちにメッセ―ジやアドバイスをいただけないでしょうか?
 

大学生のころにニューヨークへ行き始めましたが、完全に「道なき道」でもなくて、本当にオーガナックに自然に繋がっていったものです。すごく大変だったこともあったかもしれないけど、自分のやっていることが本当に好きだったのでそこまで苦には感じませんでした。というか大変だったことは多分ほとんど忘れました(笑)。
海外に出るにしても日本に留まるにしても説得力のあるスタイルがある人はそれが大きなアドバンテージになると思いますが、自分のスタイルが最初からある人はあまりいなくて、だんだんと色々な経験を経て固まっていくものだと思っています。人と違うことをするのも大事だけど、この人はすごいな!と思うところを自分に取り入れることも大事だと思います。人のスタイルの真似をしようとしても結局は真似しきれないということが個性に発展することも多いんじゃないかと思うし、それが「影響を受けた」ということでもあるはず。日本から音楽で海外に出るとしたら今はベルリンが多いかもしれないけど、どこにいるとしても、結局は自分のスタイルを確立することが一番。さらに言えば一人だけでやるより周りの影響を受けやすい環境に自分を置くこともメリットだと思います。そういう環境にあることはそれ自体が刺激になるし、人のテクニックも参考になったりします。一人で篭ってやっていると方向を見失ってしまうこともあるから、ベルリンのようにアーティストが多く、間違いなく制作向きでな環境である土地に移住するのはプラスだと思いますよ。

 

 





今回インタビューをさせていただいたSatoshi Tomiieのアルバムリリースに合わせた凱旋来日ツアーが5月29日(金)大阪"CIRCUS"と5月30日(土)東京"AIR"の2公演で開催されます。
そのスペシャルな各公演に、抽選でクラベリア読者をご招待!

応募方法は info@clubberia.com へ「Satoshi Tomiie凱旋ツアー応募」と件名に記載して頂きメールにて応募ください。
なお応募の際に、必ずフルネーム(カタカナ)と、大阪公演(2組4名様ご招待)、東京公演(5組10名様ご招待)のどちらを希望するか記載してください。

応募締め切りは5月25日(月)までとさせて頂きます。





- Satoshi Tomiie "New Day" Release Japan Tour 2015 -

会場:
5月29日(金)@大阪CIRCUS(http://circus-osaka.com
5月30日(土)@東京AIR(http://www.air-tokyo.com) 



- Release Information -

アーティスト:Satoshi Tomiie
タイトル:New Day
発売日:5月20日
価格:2,300円(税抜)

[トラックリスト]
01. Last Night (In This Dream I Watched
A Film Of A Dream Within This Dream)
02. Landscape
03. Odyssey
04. New Day feat. John Schemersal
05. Nature Abstraite
06. Thursday, 2am
07. Calm Me Up
08. Momento Magico
09. Wave Side Back
10. 0814
11. Sinfonia
12. Cucina Rossa