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RAHA’s thoughts - vol.3:『1992 NY』


 



みなさん、お久しぶりです。気が付くと前回からもうだいぶ間が開いてしまいましたが、お元気でしたか?
この間、世の中は相変わらずの状況がずっと続いてしまっていますね。まさか1年経ってもほぼまだ同じような状況が続いているとは思いませんでした。皆さんの健康をお祈りします。

まず最初に、軽く自分の事についてご報告しておきたいと思います。前回投稿の昨年6月の章で書いていたように、今のこのコロナの状況が始まってからいい方向へと変えた生活スタイルというものを、あそこに書いたもの全てを以来ずっと継続してきています。食事(食材・調味料)、トレーニング、休息といった事たちです。

普通のスーパーで買物もしますし全てはムリですが、基本的に可能な限りで「有機」「減農薬」「無添加」「非遺伝子組換え」といったワードに沿っているものを口に入れるようになりました。コロナ以前ほどではないものの肉もいっぱい食べますが、例えば頂くその豚がどのくらい安全な餌を食べて育ってきたものなのか、なども考えて選ぶようになりました。以前では思った事すらなかったテーマです。今は、意識し過ぎてそれがストレスにならないようにしつつも、でもやはり常に頭に置きながら生活をするようになりました。米ひとつ買うのでも、これはどのくらいの農薬が使われてるヤツなんだろうか?とか。

なので、水、塩、米、野菜、、、等、気が付いた変えられるものは全て変えました。
加えて調味料で言うと、例えばあの白い砂糖なんかは、気付いたらこの1年、考えてみたら家の中で蓋を開けた事すらありませんでした。あれだけ大好きで1年中ゴクゴク飲んでいたアクエリアスも、考えたら実際相当甘いので、量をだいぶ減らしてその分お茶と水と豆乳を飲むようにしています。

料理もひたすら基本塩だけで相変わらず”煮る”方法のみで食べ続けてきました。有機野菜や自然食品などを毎週宅配してくれる『大地を守る会』が僕の食生活を助けてくれています。しかし野菜とか何とかを煮てスープだけで食べるのみというのが9ヶ月にもなると、年が明けてぐらいからはいい加減もうスープの顔を見るのもだんだん辛くなってきて食事が徐々に詰まってきました。そんなところに遂に油も要らないし全く焦げ付かないという魔法のフライパンを見つけて購入したところ我が家の調理に革命が起き、3月末からは肉野菜炒めなどの”焼く”というメニューが普通に加わってくれ、何とか今のこの2周目となった自炊生活をやり繰りしていけそうな気がしているところです。

こういうベクトルの食生活に変えてまだ1年も経たないうちに、それでも僕には劇的な変化がハッキリと現れてきてくれました。
去年の11月末に行った定期検診では、ここ数年でD判定とかになってしまっていてこのままだと近々ちょっと、、、と言われていた腎臓やら肝臓やらといったあたりの数値が、なんと軒並みまあオッケーな範囲内の数値に! 今年4月にやった人間ドックではそれより少し戻ってしまったものの、それでも何とか大丈夫なレベルに収まっているようです。

また25年以上にわたって僕の体を診てもらっている整体の先生からは、身体の状態は先生のここ十数年の記憶にある中で一番いい状態になっていると。それこそコロナが始まる前までのここ2, 3年の状態は、先生曰くいつ何が起こってしまってもおかしくないようなギリギリの状態であったとの事でした。先生少し触れば、時に僕の内臓が背中の方に嫌な感じで腫れている事がよくあったとかそういうのもちろん分かっていたのですが、今はそれもほぼ普通の状態になってるようです。
ありがたい事に、「RAHAさんの場合、今回のこの期間があった事で、確実に寿命が延びました」との事です。

去年の4, 5月頃に外出れないから筋トレ始めてる、って人、おそらくたくさんいたと思います。僕も同様でしたが、それを今も休まず同じペースで継続できていて、筋トレ、ランニングも何とかずっと続いています。大晦日も除夜の鐘聞いてから夜中エクササイズして走ってた。おかげでここ近年なまってた身体もひと頃よりはだいぶしっかり戻ってきました。
その成果もあってか、前述の先生曰く、10年ちょっと前に遭った交通事故で負った、腰・足にずっと続くその時の後遺症も、今が一番いい状態にあると。自分でも、体が10年ほど前に近い状態に戻った確信があります。

去年の今頃は、1年後の春夏にはもう普通の旅の生活に戻れるんだろうなと思っていましたが、今年に入って新たな変異種なんてのも出て来てしまって、頼みのワクチンだって我が国は全然遅い。どうやらコロナ収束までは残念ながらまだ相当の時間がかかりそうだし、それまでは海外なんかもまだ当分は気楽に行ける感じにはならないんだろうなと覚悟しています。1年はもう覚悟できていたけど、これがまさか2周目に入るとは正直思っていなかった。。ですが、せっかくなのでこの間に、自分の身体を内外共に可能な限りよい状態に戻しておこうと思います。コロナ終わって自分がまた自由に動けるようになったら、おそらく前ほど劣悪ではないにしても、やはり楽しい分だけ身体を追い込んだハードな生活に戻っていく事になるでしょうから。


夏から秋の間は、東京を離れ計3ヶ月ほど山の暮らしをしていました。これは実は何年も前からずっとやりたいやりたいと思っていた生活そのものでした。しかし通常では、この期間はそのほとんどがヨーロッパの滞在に当てられるため、そしてそれを省いてしまうと自分ではなくなるために、もう本当に先まで叶わぬ望みだろうなと思っていた生活。それが今回、海外に行くという事自体が強制的にできなくなり、現実のものとする事ができました。1週間とかではない昨夏の経験は何にも代えがたかった。僕にとって本当にもう一つの夢のような時間となりました。

ただ、それと引き換えに一度も海に行かずに1年を終えたのは初めての事でした。ま、1月のベトナムがあったからまだいいか。
そして、1月末から2月に2週間ヨーロッパに行っていたのは後の状況を考えると本当に奇跡的な判断となりました。もう1年以上前の話になってしまいますが、去年、少なくともベトナムでのepizodeとこのヨーロッパで友達みんなに会っておいてよかったとしみじみ感じています。もしかしたら自分の中で虫の知らせみたいなのもあったのかもしれないと今になってみると思います。



音楽の話しをしておくと、前回最後の章の後、海外のPodcastを2つ、配信を1つやりましたので紹介させて下さい。お時間ある時に、Podcast2つ、是非聴いてみて下さい。


■1) まずは去年の11月。良質なミニマル・ミュージックのリリースを続けるオーストラリアのアンダーグラウンド・レーベル “Unic” のPodcastです。

『Unicast ~ 073 | Raha』






■2) 3月には、48時間にわたるエレクトロニックミュージックチャリティー Livestream に参加しました。”THE BEAT GOES LIVE” は、クラブシーンを支援する事を目的とした、世界のいくつかの最も象徴的なベニューとアーティストを統合して行われた共同イニシアチブで、ベルリンのClub der VisionaereやウルグアイのPhonothequeと言った、世界中から著名な13の会場がon line上に集い、30人以上のアーティストが登場しました。日本からはDOMMUNEが招待され、GONNOくん, Sapphire Slows(Live)さんと共に出演させて頂きました。VRを駆使したこの時の映像は本当に素晴らしく、早くアーカイブが見れるようになる事を祈っています。

『THE BEAT GOES LIVE - Livestream -』




■3) そしてこれはわりと最近ですが、4月末にヨーロッパのミュージックサイト "Trommel" のPodcastを担当致しました。ものすごくいいラインナップの中にピックアップして頂き恐縮至極です。引き続き今後も頑張りたいと思います。

『Trommel.116 RAHA』




https://trommelmusic.com/category/music/podcast/
https://trommelmusic.com/music/podcast/trommel-116-raha/




あとは、前回の章でも紹介しましたが、僕のTwitterアカウントで昨年の4/29から始めたRo choice。このコロナ禍初期の中で、音楽の嗜好を共にする人達とそしていつも活動を後押ししてくれてきた人達と、少しでも日々繋がっていく事ができたらと思って始めた日々のアップでした。あれ以降今でもずっと続けていて、この1年基本的にほぼ毎日1曲ずつアップしてきました。チェックしてくれているみんなの多少でも息抜きにそしてプラスになってくれていれば幸いです。始めた頃は、この1年後にはもうそろそろ必要がなくなっている頃だろうなと思っていたのに、世の中の状況がほぼ変わっていないのには驚くと同時に悲しい気持ちにもなりますが、1日も早くこのコロナの状況が終わって、また思い切りパーティーしたり旅行したりと、外で安心して自由に過ごせる事を切に祈っています。Ro choiceはもう近年に突入しているので当初予定していたゴールも近付いてきましたが、もう少し続けたいと思いますので、引き続きどうぞよろしくお願いします。よかったらチェックしてみて下さい。
 




さて、では今回のテーマに入りましょう。ようやく手を付けた今回の表題。前からいいタイミングが空いた時に是非書きたいなと思っていた題材で、まさに今がそれだと言うことで昨年中からずっと書き始めたかったのですが、今回本当に筆が重くてなかなか取りかかる事すらできませんでした。『Ibiza through RAHA’s eyes』のコラムを書き始めた第1回は2012年、それ以来何しろ一回ごとがご存じのようにものすごい分量で、それを2019年末まで105回書き続けていました。今思うと恐ろしい気すらします。あまりにも多く書き下ろしてきたためか、書く行為に少し距離を置いたところ、長い文章を書く事が本当に億劫になっていて、ここまでなかなか書き始める事が叶いませんでしたが、年が明けた頃からそろそろゆっくり書き始めました。それも途中で何度も立ち止まり動けなくなりながら、何とか歩を進めて来ました。

時は1992年、僕が初めてNew Yorkに行った時の話です。
当時の写真もあまり残っていなかったため伝えるにもなかなかもどかしいところがあり、それもあって筆の進みも遅かったのですが、最近になり同時期に行っていた当時の仲間からの写真が手に入り、何とか形を整える事ができました。僕の文、やや簡単な描写になってしまっているかもしれませんが、ご容赦下さい。


この頃日本では、ZOOを輩出した89年から92年まで続いたテレビ朝日の『DADA L.M.D』、フジテレビの『ダンス!ダンス!ダンス!』、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」内での『ダンス甲子園』といった、ダンス番組が3つも同時に地上波キー局で放送されるという、日本中を巻き込んだ史上空前のダンスブームが既に起きていました。91年の年末にはZOOの『Choo Choo TRAIN』が100万枚以上売れ世間を席巻し、大変な事になっていました。こうしたテレビなどと言ったメディア的なシーンと表裏一体で、現場のクラブシーンもそれまであった事のないような規模の盛り上がりが続いていました。僕自身あの頃は、ひどい月なんかは六本木に実際ひと月に25日とか遊びに出ていたものでした。曜日とか関係なく、それぐらい面白かったんだと思います。(本当の意味での街の面白さは、僕にとってはそのもっと前ではありましたが)

元々ダンスが好きで10代から見よう見まねで踊ってきていた僕も、幸運な事に当時大変素晴らしくそしていい仲間達に恵まれ、ものすごく楽しい毎日が充実した、ダンスを追いかける日々を過ごす事ができていました。一生の友達と言える素晴らしいダンサー仲間達には心から感謝しています。


92年の話しをする前に、まずその前年の事に軽く触れておくと、
この前の年の91年には、ダンス的にも当時のそのタイミングに旬ですごく面白かったロサンゼルスに友達みんなと行っていました。結構な大人数がこの同じ期間にみんなで行っていました。でも若い時だったし、ハワイ以外のアメリカの本土はこれが初めてで右も左もよく分からないし、一人で行ったのでは経験できないような事ばかりでそれはそれですごく楽しかった。現地で本当によくして頂いたDJ YUTAKAクンに何人かでICE Tの豪邸に連れてってもらった時のその家相当ヤバかったの覚えてる。部屋の中の光景とか今でも覚えています。また、地元のヤツらでも本当に怖がって行きたくないという最凶の街コンプトンになんとか頼み込んで現地のダンサーの友達に連れてってもらった時は、その彼がじゃあ向こうを18時には絶対に出なくては本当に危ないからというシリアスな条件だったにも関わらず何だかの事情でその時間をちょっと過ぎてしまい、すると気付くとでかいショッピングセンターの駐車場で僕らが固まっていたその周りに地元の悪そうなヤツらが集まって来始めてしまい、あの時はしゃれじゃなく本当に怖かった。など、カメラ持ってってるヤツなんか僕含めて一人もいなかったから写真など全く残っていませんが、全てがいい思い出として胸の中に残っています。そう言えばあの時はticketをOPENにして行ってたんだけど、その時の何かの状況で帰りの便が全く取れなくなっちゃって、お金ももう底を尽きるのにいつまで経っても帰れなくなって大変な思いもしたな。


そして、このロスに行って来た後に、ダンスの世界で日本でも色々な変化が起きてきて、その中の一番大きな出来事として、一本の衝撃的なビデオに出会います。

このブログページ、昔色々なメディアにたくさん書いてきたようなダンサーの人に向けてのものでは全くないのですが、以下のビデオ、特にダンスというものをしてきたわけではない方達も、一見の価値があるのでよかったら是非ご覧下さい。

Lalah Hathaway - Baby Don't Cry (ベビドン)


ものすごい衝撃でした。僕の中での生涯で一番影響を受けたPVは今でもこれです。この頃のニュースクールのダンサー全員中全員が夢中になりました。それまでの色々な概念が大きく変わったのをハッキリ覚えています。NYという概念が僕の中ではここから始まりました。
このビデオ見てから夜六本木サーカス踊りに行く時のカッコが、みんなそれまでのCROSS COLOURSとかじゃなくて、小綺麗なシャツ着てったりし出してたの覚えてます。


そして同じ意味合いでもう一本がこれ。

Mariah Carey Live - Emotions - MTV 1991



そしてそのムーブとは別に、更にもう一つ大きかったのは、一足先にNY行って帰って来た仲間が日本に初めてハウスのダンスを持ち帰って来て、そこでまた日本国内にもう一つの革命が起こり、身内のみんなハウスでもステップを踏んで踊るという事を覚えていったのです。


さて、この92年。
この1992年と言うのは4年に一度のオリンピックの開催年だったというのがすごく重要なファクターとなっていました。開催都市のバルセロナだけでなく、その何か高揚した感じというのは世界の各都市でも同じように充満しており、ファッションの世界でもオリンピック限定モデルというのがこぞって発売され、中でもPOLO RALPH LAURENの1992モデルは、HIPHOPシーンの若者全員が手に入れたい、しかし入手困難な特別なプレミア品となっていました。
『ナインティーンナインティトゥー』というあの響き。

Zhigge-Toss It Up


世界の多くの業界・シーンで同じように非常に大きなムーブが起こった年だったようで、そんな色々な要素がバッチリと嵌まった最高のタイミング、それがこの1992で、その勢いのある年のNYをあれが初NYであった自分が体験できた事は、自分の人生において本当にラッキーであったと一生忘れられない素晴らしい思い出となって今も自分の中で息付いています。


この年の8月、僕が一人で行く前に既に仲間達の先発隊が現地に居た。彼らも1ヶ月居て、僕も1ヶ月で、僕が着いた頭の1週間だけ日にちが被り、一緒に遊ぶ事ができた。向こうでみんなで遊んだあの時間、夢のように楽しかったな。
僕含め仲間達が泊まったアパートメントホテルは8Av. 42st.。そんな危険な地区では全然なかったけど、それでもここよりも外側の9Av. を超えるといきなり何か様子が変わって怖かった。それこそプッシャーしか歩いていないかのようにも思えた。そこから外は少し行くともうハドソン川で先にはニュージャージーが見えてた。一度なんか、全然普通の家族連れも歩いている完全な表通りの8Avでさえ、デリの中に居るっていうのに頭おかしいヤツに襲撃されて、その場に居合わせた善人のカナダ人の白人ボディビルダーが助けてくれなかったら、あれは俺らどうなってたか分からなかった。たしかKOYAと二人で居た時だったな。



Brooklyn Bridgeの袂で



Buckshot (Black Moon)


Lessonの後みんなで


懐かしのHOTEL BELVEDERE


初めてHarlemに向かった時は心からワクワクした。地下鉄降りて初めてここに足を踏み入れた時、ものすごく特別な気持ちを抱いたの今も覚えてる。これがHarlemなのか、、と。あの頃のHarlemのあの感じ、本当に好きだった。でもここなんかでも昼間でも迂闊に裏道とか行くのは本当に止めておいた。道歩いてるだけで、”Fuckin’ Japanese!” って正面切って何度も言われた。今、人種差別の問題すごく言われてるけど、昔の僕ら、アメリカ行っても、また数年後にヨーロッパ行くようになっても、日本人、chinese、アジア人って言ってなぜか思い切りバカにされてめちゃくちゃマトにされてたよw
ブロンクスに行く時は本当に緊張していた。常にしゃれじゃない怖さを持って歩いていた。
ブルックリンは、若くてすごくエネルギッシュな感じで、裏に行きさえしなければまだそこまで危険じゃないようにその時の自分には感じた。その年だか翌年だかから、仲よかった一人の友達が行って長期ビザもないのにそのまま数年住み始めちゃってたな。不法でw



みんな食費を削ってでも服を買いまくって、Ralph Lauren始め, Guess, The North Face、ブーツはTimberlandも基本のオーソドックスなヤツは100%全員買ってた。




友達はバスタとも遭遇


街中でもクラブでもカッコいいドレッドの黒人がたくさん居て、ハウスダンサーなんかはよくドレッドに貝殻を付けるのなんかも流行ってた。
また、向こうで黒人の人達が普段から木(小枝)を咥えてるのがやたらカッコよくて、今思い出すと笑えるけど、日本帰って来てそれを真似して、仲間達と共に夏の間中、しょっちゅう木を咥えて過ごしていたのも若かりしあの頃のほんといい思い出だ。

それとこの頃は楽曲的にHIPHOPとREGGAEがガンガン混ざってきてヒット曲も出まくっていたような頃。ハウスでも踊るのに加え、どっぷりのdeepなREGGAEまでではなくとも、こうしたHIPHOP寄りのREGGAEではクラブで普通に全然踊るんだという事を覚え、東京帰って来てからは、時々西麻布にあったClub Jamaicaとかにも一時期行ってみたりもするようになった。

Chaka Demus & Pliers - Murder She Wrote


Chaka Demus & Pliers - Bam Bam


路上や服屋で売ってるカセットテープをみんな買いまくってたな。向こうで売ってたカセットテープは、あの頃の大きな教材の一つだった。



クラブは、僕が行っていたような店は客のほとんどが黒人で、日本人の僕らは居るだけで珍しいからたまにからかわれたりもしてたし、ハコによっては危険にも充分気を付けながら遊ばなくちゃいけなかった。現場ではあちこちでダンスのサークルができていて、色々なPVで擦り切れるほど見ていたダンサー達が目の前でバトルを繰り広げていた。僕らからすると天国のような空間だった。

その時のクラブは僕ら目線ではこんなのだった。

HIPHOP - MUSE (断トツに面白かった。かなり下のハドソン川に近い場所にあって、夜歩いてるだけでも常に緊張感のあったの覚えてる), HOMEBASS, Palladium, Nells (23th沿いのお洒落なとこ)

ハウス - Shelter, Tunnel, Vinyl





このフライヤー、どっちもすごいラインナップなんだけど、これが酷い。ERiC B.&RAKiMなんて出やしない。KOOL G. RAP & POLOなんてどこに居るの?もちろん裏面にデカデカと書かれているBDPのLiveなんていつまでたっても始まらないし少なくとも自分はこういったゲストが額面通りに来てるのをまず見た事はないと記憶している。今はどうなってるのか知らないけど、この頃のフライヤーはこういうのばっか。最初の頃は本当に訳分からなかったが、こういうものなのかとすぐ慣れた。



Jazzy Joyce, Large Professorはその後自分達のイベントで日本に呼んで回してもらった。


91, 92辺りは、Crystal Waters - Gypsy Woman, CC Peniston - Finallyなんかが出てメジャーシーンでもハウスが大流行し、NYでもHIPHOPのクラブと平行してハウスのクラブもそれまで以上にものすごく盛り上がってきてた時だった。


また、クラブではないけど、APOLLO THEATERでは「アマチュアナイト」が面白くて何回か見に行ってたけど、有名なラッパーのショーがある日とかは人もその熱気もすごかった。
さすがにこの出演者陣は本当w



当時のNYの様子や僕らが憧れ続けたダンスシーンの感じ、僕らが毎日どれほどビデオ擦り切れるほど見たか分からないこの映像で少し伝わればと思います。僕らのバイブル。最後の方にはクラブの様子も少し出て来ます。

ALIVE TV


彼らが世界最高峰のHIPHOPそしてハウスのダンサー達。アンダーグラウンドのシーンだけじゃなく、メジャーのシーンでも、マイケルジャクソンの振り付けもすればマライヤキャリーのバックダンサーもしてた。クラブに行くと、この彼らが実際に目の前で踊っている。僕らにとっての神様が目の前で輪っかを作ってバトルしている。92年のNYのクラブは、まだそれがしっかりと残っている時で、それを体験できたというのは僕の人生の中で一生の財産となる本当に幸運な事だった。だから前のRAHA’s eyesから何度も言っている。行くべき見るべき時のタイミングにそこに行かなくてはならない。この時そのものを実体験するかしないかは後に巻き返しようのない差となって現れる。だから特に若いコ達には、行くべき時には躊躇なくまずは行って自分の目で見て来いと。海外で行われているその文化を、そこに行かず日本で情報集めているだけではその本当の感じとか分かる訳がない。これは、後のイビサも含めて、僕が生涯身に沁みて感じてきた事です。


この少し前には、ヨーロッパではセカンド・サマー・オブ・ラブというムーブメントが起こるなど、ヨーロッパのダンスミュージック・シーン、クラブ・シーンもさぞかし面白かったであろう事が想像できます。その一方で、僕らはダンスをやってる中ここの核心のところを見つけてどっぷりと味わってしまっていたので、その時の今現在、自分達は世界で一番面白い事をやれているという100%の確信を持ってやっていました。でもこれは自分がその前からダンスというものをやっていなければそこまでの面白さが分からなかっただろうなと思います。あの頃踊りをやっていてよかったと、そしてクラブで生きていてよかったと、これまで生きてきて心から思います。毎日が死ぬほど楽しかった。
自分は10代の時からブラックミュージックが一番好きできていたので、NYの黒人文化が、音楽・文化・スタイルと言った全ての面で一番魅力を感じるものでした。だから当時必然的にあのシーンの魅力にとりつかれていた。実際この時のNYはあの時代でやはり世界で一番面白い街だったんだろうと思う。でも、同じように同時代のヨーロッパの音楽のパーティーシーンも体験したかったな。もう一度生まれたら、できる事なら今度は当時のそっちのシーンを通ってみたいなと思います。どっちも同じくらいヤバかったんだろうから。




そして生のNYを見て、日本という国に帰って来た時のあの気持ち。。特に渋谷との歴然とした街の質の差、人の感じの違いに、それまでの人生で一番と言っていいショックのようなものを受けました。もちろんこの自分自身の見てくれ、雰囲気も含め。。


NYにはなんだかんだ言ってこの年からしばらく毎年夏に必ず1ヶ月行くようになりました。

しかしその後、94年にNY市長になったジュリアーニ氏が、NYの文化をぶち壊す。風景は一変した。彼の方針の下、NYはきれいで治安のいい安全な街へと大きな変容を遂げる事となります。「家族で安心して歩ける安全できれいな街」。各辻には警官が立つようになり、ハーレムの名物や出店も一掃されます。それにつれ、僕達から見て危険も伴うけれどだからこそ楽しいものが生まれていると感じていた魅力の部分は急激に失われていき、最初に訪れた頃のような街を歩くだけでドキドキするような興奮は僕の中では徐々になくなっていってしまいました。

ー「生活の質」という新たな取り組みの一環で、ジュリアーニ氏はホットドッグの売り子から大道芸人、信号を無視する歩行者、ストリートアーティスト、車の窓拭きまで取り締まった。ー Roling Stine誌引用

~ 90年代のニューヨークの夜はヤバかった 伝説的クラブの元経営者が追想 ~ より (←これメチャクチャ面白いから絶対読んだ方がいい)
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/33693

(このページ、ちょっと前まではPCでもフリーで読めてたんだけど、今見ると無料メールマガジン会員登録に登録しないと先が読めないように変更されちゃってますね。でも、携帯でだと最後まで全部読めるようです!)

それと時期を同じくするようにHIPHOPの音楽シーンそしてダンスシーンもその雰囲気・シーンの形態が大きく変わってしまい、HIPHOPの曲調自体もよりハードコアなものが主流になっていきました。翌年の93年のNYは既にちょっと違う感じになってきてた。92年に街にあれだけいたドレッドのダンサー達が全く居なくなってしまった。彼らの話を聞いても、あの頃の大好きだったあの雰囲気が見れたのはこの92年が最後だったと言えるかもしれないと思います。
そしてそれが更に進むとティンバーランドなどが出て来て、いわゆるチキチキといった軽い曲調、そしてダンスはそれまでのフロアーにダンスの輪っかを作ってバチバチのバトルをし合うというものでなく、女の子と腰をくっつけて踊るようなラウンジーなものの割合が極端に目立つようになっていきました。

それよりもっと前のNYを残念ながら僕は知る由もありませんが、最初に訪れたこの92年、あの時のNYは、黒人音楽が好きな、そして踊りをやっていた僕達にとっては間違いなく世界で一番面白い場所でした。
この92年、そして翌年頃までは、その前の時代の雰囲気がまだ残る最後のタイミングだったのではないかと思っています。
そしてHIPHOPのクラブという事で言っても、もしかしたら、80年代後半からの流れがまだギリギリ残っていて実感する事のできた最後の年だったのかもしれないと思います。

最後に行ったのは98年。この時にはもう色んな意味でだいぶ違う感じの街になっていて、自分の求めてるものとはもうちょっと違う感じがしていたので、それ以来行っていない。
そして、99年からはヨーロッパに行くようになります。これはまた次の機会に。


(special thanks : photo by Hajime Kamiiisaka)